源満仲は武官貴族 つまり貴族だと言われると腹が立つ

源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将清和源氏六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。満中とも記される。神号多田大権現

当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた。弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王[2]清和天皇の皇孫源蕃基[3]がそれぞれ主犯と共犯であったという[4]
左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高播磨貞理らと共に村上天皇鷹飼に任ぜられる[5]。同4年(967年)に村上天皇崩御すると、藤原千晴と共に伊勢に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出た[6]が、満仲のみ病による辞退を許された[7]
安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇廃太子謀反があると密告して事件の端緒をつくった。この事件で左大臣源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕している。満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進した。
藤原摂関家に仕えて、武蔵国摂津国越後国越前国伊予国陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている。この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという[8]。また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでない[9]
二度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成した[10]
また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」[11]とは、満仲の一族であったと考えられている。この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家一条天皇摂政に就任した。
永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源仏法を満仲に説き出家させたという説話がある。なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は延喜19年(919年)から延長6年(928年)の間となる。
長徳3年(997年)8月27日に卒去。遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。

出家に天台宗が関わっていたようだから 当時はな。