阿波の国 ようやく縁のキーワードが出てきた。菅公のひいじいさんがいたとこだ そこ。



あたしと縁が出てきたよーだ。


阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。


◎菅公のひいじいさん↓
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菅原 古人(すがわら の ふるひと、天平勝宝2年(750年) - 弘仁10年1月10日819年2月8日))は、奈良時代から平安時代にかけての貴族氏姓は土師宿禰、のち菅原宿禰、菅原朝臣阿波土師宇庭の子。官位従五位下遠江秋篠安人を弟とする説もある。

経歴[編集]

宝亀10年(779年従五位下天応元年(781年)6月従五位下に叙せられる。同月、古人・道長ら一族15名が居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで菅原姓(菅原宿祢)への改姓を願い出て、これを許される。延暦9年12月(791年)には菅原朝臣の賜姓を受ける。延暦21年(802年遣唐使に随ってに渡り、延暦24年(805年)帰国。
学問に優れ文章博士大学頭を歴任し、侍読を務めた。だが、学問以外には無頓着であったため、菅原家は朝廷からの援助を受けていたという。


◎菅公のじいさん↓
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菅原 清公(すがわら の きよきみ / きよとも、宝亀元年(770年[1] - 承和9年10月17日842年11月26日))は、平安時代初期の公家文人遠江介菅原古人の四男。官位従三位左京大夫

父・古人は高名な儒家であったが、家に財産がなかったことから、清公ら子息は窮乏し苦しんだという。清公は若い頃から経書史書を学び、延暦3年(784年)詔により皇太子早良親王に付き従い、延暦8年(789年)奉試に及第して文章生に補せられる。学業に優れて秀才に推挙され、延暦17年(798年対策に及第して大学少允に任ぜられた。[2]

延暦21年(802年)遣唐判官に任ぜられ、近江権掾を兼ねる。延暦23年(804年空海最澄らとともにに渡り、遣唐大使藤原葛野麻呂とともに皇帝徳宗に謁見し、その引き立てを得た。延暦24年(805年)帰国して従五位下・大学助に叙任される。

淳和朝に入り、天長元年(824年播磨権守左遷されるが、時の人はこれを憂いた。

孫の菅原道真天神として祀られたことから、子の是善とともに天満宮に祀られている。

人物[編集]

人徳があり、生物を愛して殺生を好まなかった。老いてからは勤行のために仏像の製作や写経に励む一方、常に名薬を服用して顔貌が衰えることがなかったという。

菅原道真845年あたりから903年

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www.ku-kai.org/kono.html - キャッシュ
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源満仲912年あたりから997年


伊予 村上水軍
摂津 武家棟梁 住吉神社
越後 産地 糸魚川翡翠 米
越前 南朝 新田義貞

kotobank.jp/word/越後国-36708 - キャッシュ
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ja.wikipedia.org/wiki/風間信昭 - キャッシュ
風間 信昭(かざま のぶあき、生年不詳 - 正平9年/文和3年(1354年)頃)は鎌倉時代 末期から南北朝時代初期にかけて、南朝方として活動した越後国の武将。通称、信濃守 また越後守とも。同国頸城郡(現在の新潟県上越市)の直峰城主。越後風間氏の当主。