加賀って一向宗一揆起きたとこ 一向宗暴れたとこにたいがい カルトがいる
赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。鎌倉幕府の打倒、室町幕府の創設に寄与し、守護大名の1つとして勢威を振るった。後に嘉吉の乱を起こし、応仁の乱にも深く関わるなど戦国時代の到来の一因を作った。
出自から室町時代まで[編集]
←説明が長い 北条は好かん その北条と縁組した時点でアウト
『尊卑分脈』などによると、赤松氏は村上源氏・堀川大納言定房の孫の源師季に始まり、師季の子の源季房(季方とも)が播磨佐用荘に配流され、その後裔の則景が建久年間に北条義時の婿になった縁で赤松村地頭職に補任されたことから、嗣子家範が赤松氏を称したと言われている。しかし、季房から則景まで7代もあることから、名和氏同様に信憑性に関する賛否がある。また、三河国作手の奥平氏は赤松氏の末裔と称した。
近時、赤松則村(円心)が北畠親房との縁により、後醍醐天皇方に参戦した際に北畠家の属する村上源氏の末裔を自称することを許可された説が浮上しており、地域に根付いた土豪や悪党の類で、瀬戸内海で海上貿易や海運業で財を成した。その一方、在地の御家人の出身である説や、円心や三男の則祐が鎌倉時代には既に従五位に相当する僧綱にあり、軍事面で一大勢力を築いていた事から、古くからの名家だった説もある。
←こじつけだな 単に裏切っただけ 以下濡れ衣だった可能性を示唆 ウィキ↓
護良親王(もりながしんのう/もりよししんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。
また公家の藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。
名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。
尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入る。大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたとみられることからである。正中2年(1325年)には門跡を継承し、門主となる。後醍醐天皇の画策で、嘉暦2年(1327年)12月から元徳元年(1329年)2月までと同年12月から元徳2年(1330年)4月までの2度にわたり天台座主となる。『太平記』によると、武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む極めて例が無い座主であったという。
元弘元年(1331年)、後醍醐が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の変を起こすと、還俗して参戦する。以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐、村上義光らとともに十津川、吉野、高野山などを転々として2年にわたり幕府軍と戦い続け、京都の六波羅探題を滅ぼした。しかし、討幕の功労者足利尊氏(高氏)とは相容れず、討幕後も上洛せず信貴山(奈良県生駒郡平群町)を拠点に尊氏を牽制する。
建武政権においても尊氏らを警戒していたとされ、縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に、義良親王(後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させる。
円心は元弘の乱において、後醍醐天皇の皇子護良親王(大塔宮)の令旨を受けていち早く挙兵し、建武政権の樹立に多大な功績を挙げたことから、建武の新政において播磨守護職に補任された。しかし、有力な後ろ盾だった護良親王が皇位簒奪を企てたとして失脚するのに前後する形で播磨を没収されたことから、新政から離反した足利尊氏に味方し、尊氏が一時形勢不利に陥り九州へ西下している間は新田義貞の勢力を赤穂郡の白旗城で釘付けにして、延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いにおいて尊氏を勝利に導く遠因を作った。
円心の長男・範資には摂津、次男の貞範には美作、三男の則祐には備前の守護職が与えられ、合わせて4ヶ国の守護となる。但し、摂津守護は範資の子・光範の代に召し上げられ、以後、範資の系統は庶流となり七条家を称した。七条家は後裔の赤松義村が赤松政則の後継となり、宗家への復帰を果たすこととなる。
しかし15世紀に入ると、永享元年(1429年)に播磨の土一揆が発生するなど、その支配力に次第に翳りが見え始める。更に6代将軍足利義教は赤松満政や赤松貞村といった庶流を優遇し、本家である赤松満祐・教康父子を冷遇し始めた。嘉吉元年(1441年)、満祐父子は義教を自邸で暗殺し、播磨に帰国した。この嘉吉の乱により山名持豊(宗全)を中心とした幕府軍の追討を受け、満祐は城山城で自害し教康も殺され、赤松氏本流は没落した。三国の守護職は山名氏に引き継がれ、分郡守護となった満政も失脚・追討された。