武烈王と武烈天皇

そもそも、屋敷を蘇我氏に焼かれたと記録し、日本書記を書き上げたのは中大兄皇子兄弟で、あたしは過去この二名、百済民だろうと推測しているのがひとつ。

もうひとつは、過去滋賀に都を作ったのが中大兄皇子でそれが近江京。その頃に百済移民が滋賀に大量に移民してきてる事は過去の調べでわかってることがひとつ。

もうひとつは、滋賀に百済寺 大阪の枚方百済神社というものが実在し、それは近江京のテリトリーでその神社仏閣の記録によれば百済王子が日本に逃れていたと記録がしっかり残っている。その百済という地域は今でいう朝鮮半島

百済移民が日本にぞろぞろ来て王朝と言われるようなものを作り、拡大していったというのはあたしの調べてきた結果。

その百済血統の血筋は、百済仏も拡大させた。それが奈良の大仏、のちに鎌倉大仏

あと、この中大兄皇子の時に、歴史上「白江村の戦い」というものがあり、それが唐国のちの中国によれば当時の古文で
ヤマト軍と百済軍が組み、唐は新羅に軍事協力を頼み、結果では大和と百済は船撃沈 海が血に染まったという記述のある古文になってる。

あたしは血統的にヤマトと過去書いていて、しかし奈良に縁がある気がしないと多々書いている。

この腑に落ちない部分を含め、奈良にいたヤマト軍はヤマト民族というより移民のような気がするんだけど、それと移民の百済が組んで、唐と新羅の軍に負けたっていう解釈をしている。

奈良の大仏建てた天皇百済血統だと過去書いている。
あたしの系統ではない。

そーなると、日本の大和朝廷はどこにいつあったのか・・・

とにかく、あたしはいつかこの天皇の名前を見て調べた時に、この人は同じ人物か、あるいはパクった・・・思った事、
そして今 また思った事を書いておく。

調べてる最中なんだ。

大和朝廷って実は倭 卑弥呼 魏 このたぐいをかぶせてると

前から思ってる。

魏となれば中国だから。百済となるとキリスト教も吸収してる。



武烈王(ぶれつおう、朝鮮語:무열왕、602年? - 661年)は、新羅の第29代の王(在位:654年 - 661年)であり、姓は金、は春秋。父は第25代真智王の子の伊飡(2等官)の金龍春(龍樹とも記される。後に文興葛文王と追封)、母は第26代真平王の長女である天明姫(後に文貞太后と追封)。『

  • 死没:507年1月7日
武烈天皇は、古墳時代の第25代天皇。 名は小泊瀬稚鷦鷯尊・小泊瀬稚鷦鷯天皇、小長谷若雀命。実在した人物かどうかについては議論がある。Wikipedia

武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、古墳時代の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。 名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(-のすめらみこと、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。実在した人物かどうかについては議論がある。



あと、日本書記に武烈は残虐だと書かれてるとなってますけど、白江村の戦いを考えてみれば唐+新羅VS百済+ヤマト
となってるのだから、百済新羅を良くは思ってない立ち位置
なので、その良く思ってない相手の軍隊の長を自分らの帝に作りあて、脚本で・・そんでキャラ的にはひどい人格の持ち主だみたいに貶めて書いたんじゃないかね。

だって書いてるのが中大兄皇子兄弟だぜ??  白江村の戦いで船が沈んで血まみれになった軍だぜ??


いない人を作り上げた 実際にいたよその王のキャラを用いて日本史に書き換えた。

書き換えるために、焼失という理由が安全とふみ、蘇我氏に屋敷を焼かせた あるいは蘇我氏でない人が放火し、蘇我氏に擦り付けたというとらえ方もできる。

これが宮内庁の前身だよ。