百済血統が中心となって軍隊で武力介入した歴史…朝鮮人血統の侵略行為にしかみえない
百済血統が中心となって軍隊で武力介入した歴史…朝鮮人血統の侵略行為にしかみえない
皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう)
舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母
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年表[編集]
- 敏達天皇10年(581年) : 蝦夷の寇。
- 舒明天皇9年(637年) : 蝦夷反乱し入朝せず、上毛野形名が妻の活躍により征討に成功。
- 大化3年(647年) : 渟足柵設置。
- 大化4年(648年) : 磐舟柵設置。
- 斉明天皇4年(658年) : 阿倍比羅夫が遠征し、降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。
- 斉明天皇5年(659年) : 阿倍比羅夫蝦夷を討ち、一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
- 斉明天皇6年(660年) : 阿倍比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められ、粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。同年、比羅夫は夷50人余りを献じる。
- 和銅元年(708年)頃 : 出羽柵設置。
- 和銅2年(709年) : 蝦夷が良民を害し、巨勢麻呂、佐伯石湯、紀諸人らが征討に出発。諸国の兵器を出羽国に送る。
- 和銅5年(712年) : 出羽国設置
- 養老4年(720年) : 陸奥国の蝦夷の反乱、按察使上毛野広人殺害。多治比県守征討。
- 神亀元年(724年) : 海道の蝦夷の反乱、陸奥大掾佐伯児屋麻呂殺害。小野牛養、出羽の蝦夷を征討。大野東人が多賀城築城
- 天平5年(733年) : 秋田城(出羽柵を移動)設置。
- 天平9年(737年) : 牡鹿柵設置。
- 天平宝字3年(759年) : 雄勝城・桃生城築城。
- 神護景雲元年(767年) : 伊治城築城。
- 宝亀元年(770年) : 蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇賊地に逃げ帰り、道嶋嶋足ら派遣。
- 宝亀5年(774年) : 紀広純、大伴駿河麻呂派遣、桃生城に侵攻した蝦夷を征討(~宝亀6年)。(三十八年戦争の開始)
- 宝亀7年(776年) : 陸奥国、蝦夷征討。志波村の蝦夷反逆、佐伯久良麻呂投入、胆沢地方の蝦夷征討。
- 宝亀8年(777年) : 出羽において戦闘継続、出羽国軍蝦夷に敗れるも翌年までには一旦反乱収束。
- 宝亀11年(780年) : 陸奥国長岡郡に蝦夷侵入。覚鱉城(かくべつじょう)築城。伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)勃発、牡鹿郡大領道嶋大楯、紀広純殺害。多賀城炎上。
- 藤原継縄、大伴益立、紀古佐美、大伴真綱、安倍家麻呂ら投入。百済王俊哲投入。出羽国府後退とする説あり。
- 天応元年(781年) : 藤原小黒麻呂投入。戦果を挙げ征夷軍一旦解散。
- 延暦8年(789年) : 紀古佐美、佐伯葛城らによる蝦夷征討。大規模な対蝦夷軍事行動はじまる。巣伏の戦いで征夷軍大敗。巨勢野足投入。
- 延暦10年(791年) : 文屋大原、大伴弟麻呂、百済王俊哲、多治比浜成、坂上田村麻呂投入。
- 延暦13年(794年) : 征夷副将軍坂上田村麻呂による蝦夷征伐。
- 延暦16年(797年) : 坂上田村麻呂、征夷大将軍に任官。
- 延暦20年(801年) : 坂上田村麻呂、閉伊村まで平定。
- 延暦21年(802年) : アテルイ、モレら降伏、処刑。胆沢城築城。
- 延暦22年(803年) : 紫波城築城。
- 延暦24年(805年) : 藤原緒嗣、蝦夷征討と平安京造営の中止を奏上。
- 弘仁2年(811年) : 幣伊村征討。和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置。文屋綿麻呂蝦夷征伐終了を奏上。
- 貞観11年(869年) : 貞観地震
- 元慶2年(878年) : 出羽の夷俘反乱(元慶の乱)
- 天慶2年(939年) : 出羽の俘囚反乱(天慶の乱)
- 永承6年(1051年)-康平5年(1062年) : 安倍氏征討(前九年の役)。
- 延久2年(1070年) : 延久蝦夷合戦
- 永保3年(1083年)-寛治元年(1087年) : 清原氏征討(後三年の役)。
- 康和6年(1104年)-永久元年(1113年)頃 : 藤原基頼が「出羽常陸并北国凶賊」を討つ。
- 文治5年(1189年) : 奥州藤原氏征討。(奥州合戦)
- 文永5年(1268年) : 津軽の蝦夷反乱。安藤氏討たれる。
- 元応2年(1320年)-嘉暦3年(1328年) : 安藤氏の乱(蝦夷大乱)。