古代中国 夏→殷→周→秦→漢→三国→晋→南北朝という順番

 これは 古代中国人の価値観が日本人と似てるんだね。生活ベースの安定を
 目標に地盤固めするのを優先し、その権威の象徴を作らなかった。
 ところが、権威を欲しがる勢力は、たくさん人身売買と奴隷制度を使って金
 を莫大に集め、その集めた金で自分らの権威の象徴を作った。そして、反対
 を受け滅ぼされ、その遺跡だけが残り、また建て直しを地域住民がしている
 ところに、また奴隷を伴った武力行使で、また陣取りを始める輩が他人の
 作った基盤を横取りし、そこに奴隷を使った武力行使対立が起きて戦争。
 そんで、また国を統括すると言って、奴隷をたくさん作るとこから始めて
 また遺跡などを作って破綻。責任追及と逃亡の後に、また横取りされたもの
 が宙ぶらりんとなり、戦争。

 つまり、大きな遺跡があるほど税金を集め独裁武力行使の政治があったという
 決定的な証拠となる。
 
 だから秦の始皇帝も、すごい遺産を作ったわりに破綻に近い金だっただろう。
 そして逃げただろう。あれだけの遺跡作りまくって。
 その秦の始皇帝の血統が日本の京都あたりに住み着いた。それが秦氏

 古代中国系のあたしの血統からすれば、戦になるよ。

 遺跡をつくるために、大金が必要でそんだけ奴隷を作り出したんだから。

 結局日本に流れてきた貴族豪族って、中国大陸で大金作って破綻し日本に
 逃げてきた豪族・盗賊なんだよ。

 その前に日本に定住してた古代中国民が田畑を作り、家を建て、生活を
 作って生計立てたものを、ぶっ壊してきたのは破綻した無能豪族子孫ってわけ。

 そーなると色々と辻褄が合う。そうやって戦争起きるたんびに無能なヤツが
 半島から中国からなだれ込んで、弱い人間には強く、強い人間には弱い
 それで媚び媚び文化を作ってきたわけだ。

 あと、日本の財産は土地だ。古代の人が作ってきた棚田や湖 川。
 決して神社ではない。

 だから神社の神道なんて、もはや詐欺同然。お祓い語ってお祓いできるなら
 日本の災難 お祓いしてみろや。
 
 日本の天皇に向って、お祓いなどと坊主1000人集まっても無理だから。

 あとな。これだけ恨みを伴った事案だ。あたしは相当に考えてる。

 そんで、古代中国民が財政破綻で追われた豪族たちによって奴隷化されて
 殺されてきた それが日本だ。中国でこの言葉 覚えておけよ。

 もう 同じ事はしたくない。

 なので、キンペーに打診する。

 あたしはその奴隷制は好かない。なので、共に自給自足と地産地消と、その
 循環を協力お願いしたい。ローテーションで物流まわすから、どっかで中抜きし
 大金つかんでトンズラすると言うような輩は入れないように。
 戦争の火種になるから。過去の歴史を勉強してるのは、失敗を繰り返さない
 ためでもある。ようは昨日、おとといの調べで仲買人みたいな層が朝鮮人
 たちっぽいから、間に入れない事。
 そして、大金を使って遺跡を作らなかった古代中国人。大きくなればお金が
 かかる、それでは後の管理含めお金がもったいないと、考えていたに違いない。
 それはあたしの基本概念でそう思うわけ。
 しかし、中国での過去歴史に朝鮮の関係がどうも食ってるようだからさ。
 あたしは、それすら元鞘に戻したいわけ。
 「始まりは中国にあり」それが古代中国の文明で、そこから日本に渡ってきた
 日本の先住民がいる それこそがあたしの思ってる日本史と中国史なの。
 そうすることで、環境改善がはかられる。お互いにいいと思うので、
 まず、古代中国の文明発掘は今後もあってほしい。
 殷のものがあったとして、夏のほうが古い しかし夏のものが見当たらない。
 そしたら、黄河文明長江文明が出てくれば良い。

 そして、大金使って遺跡を作らなかったために、よそが作ったものが
 文明みたいに発掘されてとなれば、後に不幸が起きる。

 あたしは貧乏性なので大金に抵抗あるけども、あと半世紀あとも平和を
 保てるように、共同の遺跡をなんか作ろうか??
   その金は奴隷制などというエグいものでなく、自分らの未来に投資という
 意味で、だから献血財団をキンペーにすすめたの。赤十字を通すなよ??
  と書いたろ??

  自らの意思で、血液売っても死ぬほど血液抜くわけじゃないし、生命の危険
  ないだろ??

  日本でもできればいいんだけどな。日本の支配機関 みんなインチキ皇室の
  権力がかかってるんだ。

 朝鮮系は欧米の工作機関で動いてきたのだから、あたしとは関わらない
 ほうがいい。そうでなくても、ものすごく恨まれてるんだから。

 あと共同でやってみたいのが、前から提示してる桃の植樹と生産な。

 あと、サンゴの生態研究と保護と移植??  移植とかできるのかな??
   中国ではサンゴ好きみたいだから、移植??  生産??  月日はかかるが
 やってみないか??  すぐに金にはならんと思うよ。
 だからそれは副業として、メインに違う職種すんのよ。

 あとな、一応 行き来する人の安全保障はお願いするよ。
 敵意持っていく人いないから。
 ただし、どうしても見分けがつかない「日本人もどき」がいる。
 それは、もし中国で害があったなら、それは罰し 日本でも同じ。
 あと、こんだけあたしが薬物禁止書いてるなかで、堂々とそれに関与する
 人間いたらば、事前告知の上で、逮捕でいいんだから。
 約束を守らない人って必ずいると思うからさ。
 かなり前 中国に苺栽培を教えに行ってるんだよね 日本で。
 そん時 なんてお人好しななんだよって話も出てたんだけどさ。
 そういう精神あるんだよ 日本人にさ。
 それに対しては、特別な評価しんくてもいいから、安全守ってやってよ。


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これが先

禹の治水事業[編集]

の時代に、禹は治水事業に失敗した父の後を継ぎ、に推挙される形で、黄河の治水にあたった。『列子』楊朱第七によれば、このとき仕事に打ち込みすぎ、子供も育てず、家庭も顧みなかったので、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったという。しかしこの伝説は、どうも元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果うまれた物語のようである。『荘子』盗跖篇巻第二十九には「尭は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」とあり『荀子』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とある。白川静は『山海経』にみえる魚に「偏枯」という表現が使われていることから、禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた。実際「禹」という文字は本来蜥蜴の姿を描いた象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている。

夏王朝創始[編集]

禹は即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。なお中国が1996年から1999年に掛けて実施した夏商周年代確定プロジェクト」に依れば、禹の夏王朝創始は紀元前2071年、王朝滅亡は紀元前1598年であったとされる。ただし同プロジェクトは、4千年前の年代確定には数年の誤差は避けがたいため、切りのよい数字を取って夏は紀元前2070年から紀元前1600年まで、と定めた[1]
竹書紀年によれば、45年間帝であったという。



こっちが後

創建以前[編集]

伝説上、殷の始祖は契とされている。契は、有娀氏の娘で帝の次妃であった簡狄が玄鳥の卵を食べたために生んだ子とされている。契は帝のときにの治水を援けた功績が認められ、帝舜により商に封じられ子姓を賜った。
その後、契の子孫は代々夏王朝に仕えた。また、契から天乙(湯)までの14代の間に8回都を移したという。

殷の王位継承[編集]

殷の王位継承について、史記を著した司馬遷は、これをの時代の制度を当て嵌め(漢の時代になると、いくつかの氏族で君主権力を共有することなど考えられなかった)、親子相続および兄弟相続と解釈したが(右記図表)、後年の亀甲獣骨文字の解読から、基本は非世襲で、必ずしも実子相続が行われていたわけではなかったことが判明した。殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている。

紂王の子である武庚は、周の武王に殷の故地に封じられた。武王の死後、武庚は、武王の兄弟とともに反乱を起こしたが失敗し、誅殺された。その後、禄父(武庚)の伯父の微子啓(紂王の兄)がに封じられ、殷の祭祀を続けた。微子啓には嫡子が無かったため、同じく紂王の兄の微仲衍が宋公を継ぐ。異説もあるが、その微仲衍の子孫が孔子とされ、その後の孔子の家系は世界最長の家系として現在まで続いている。
紂王の叔父箕子朝鮮に渡り箕子朝鮮を建国したと中華人民共和国では主張されているが、中国人によって朝鮮が建国されたことになってしまうため、韓国側は檀君朝鮮こそ初の王朝であり箕子朝鮮は単なる後世の創作であると主張している。

政治[編集]

殷社会の基本単位は邑(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。しかし祭祀のために戦争捕虜を生贄に捧げる慣習が、周辺諸氏族の恨みを買い、殷に対する反乱を招き、殷を滅亡に導いたとする説もある。