幕府本体 結局しつこい近衛が食ってるな


幕府本体 結局しつこい近衛一族が徳川を食ってるな

ほんとにしつこいな

あと、近衛一族の子孫は今、日本赤十字の社長な。

その親が近衛文麿な。その一族が遡ると幕府にへばりついてるのがよくわかる。天皇天皇側近で血縁関係作っても、朝廷という組織自体がムシされてた時代が何千年に及ぶか。

近衛は長らくのガン インチキ天皇家とともに半島へ行け。

昔、南北朝戦いあった時に、天皇ってもんが世に知れたようなもので、あとは地域番長だよ。天皇ってものは、知名度ゼロに等しい。どんだけ通信手段がなかったか・・・。
それを逆に利用してたんだ昔の朝廷って。

文すら、異国の王様から流れてきたような扱いだろうさ。

日本に住み着いた移民の子孫豪族たちよ。

それに対抗した唯一の時代が南北朝時代

その子孫だ、あたしは。
    
近衛 忠煕(このえ ただひろ、文化5年7月14日1808年9月4日) - 明治31年(1898年3月18日)は、幕末公卿公武合体派として活動した。翠山と号す。


近衛 基前(このえ もとさき、天明3年8月11日1783年9月7日) - 文政3年4月19日1820年5月30日))は江戸時代後期の公卿近衛経熙。母は有栖川宮職仁親王の女である董子。室は松平義当の娘。号は証常楽院。子に近衛忠煕、娘(津軽信順室)。養女に福君(鷹司政煕女子。徳川斉温室・定子)、増子(伏見宮貞敬親王第八女子。東本願寺達如の長男宝如の妻)。「基」の字を与えた広幡基豊猶子とみられる。

近衛 経熙(このえ つねひろ、宝暦11年2月22日1761年3月28日) - 寛政11年6月25日1799年7月27日))は江戸時代中期の公家。父は近衛内前、養母は尾張藩主・徳川宗春の娘・勝子(実母は家女房)。姉は後桃園天皇女御近衛維子正室有栖川宮職仁親王の娘(桜町天皇の猶子)・泰宮薫子女王円台院)。子に近衛基前大僧正法務亮深、養女に薩摩藩主・島津重豪の娘で徳川家斉の御台所・茂姫(寔子)がいる[1]。官位は従一位右大臣

近衛 内前(このえ うちさき、享保13年6月22日1728年7月28日) - 天明5年3月20日1785年4月28日))は、江戸時代中期の公家関白太政大臣。父は近衛家久母は満君(島津吉貴娘)。室は勝子(徳川宗春の娘)。子女は近衛経熙、因子(閑院宮美仁親王妃)、維子後桃園天皇女御で、欣子内親王の母。)など。養女に年子仙台藩伊達重村室)。猶子の広幡前豊前秀父子には「前」の字を与えている。
享保19年(1734年)に元服桃園天皇後桃園天皇の関白、後桜町天皇、後桃園天皇摂政を務めた。また、安永8年(1779年)に後桃園天皇崩御した際、後桜町上皇とともに、伏見宮家から継嗣を迎えようとしたという。

近衛 家久(このえ いえひさ、貞享4年5月8日1687年6月17日) - 元文2年8月17日1737年9月11日))は、江戸時代中期の公家公卿関白太政大臣准三宮。父は近衛家熙。母は霊元天皇第二皇女の憲子内親王。伯母に近衛熙子(6代将軍徳川家宣御台所)。正室島津綱貴の娘・亀姫、継室は島津吉貴の娘・満君。子に近衛内前、転陵院(尾張藩第9代藩主徳川宗睦正室)、宝蓮院田安徳川家初代当主徳川宗武正室)。如是観院と号す。
元禄8(1695年)に従三位に叙され、公卿となる。享保11年(1726年)から元文元年(1736年)まで関白並びに藤氏長者を務めた。享保18年(1733年)には祖父・近衛基熙、父・近衛家熙に続き太政大臣に就任し、他の摂家より優位に立ち、朝政を牛耳った。当時の将軍は徳川吉宗であったが、先々代の徳川家宣の御台所で家久の伯母である近衛熙子(天英院)は存命であり、近衛家3代に亘るの朝廷独占に繋がった。また島津家や徳川家との外戚関係を築いたことも要因となった。しかし、中御門天皇側近や他の摂家から非難されることも多かった。1737年元文2年8月17日)に薨去。享年51。
日記に『家久公記』がある。父同様に茶の湯有職故実などの文芸に優れており、和歌も多く残されている。後に家久の後任の太政大臣となる一条兼香とは長い間対立関係にあった。

近衞 家熈(このえ いえひろ、寛文7年6月4日1667年7月24日) - 元文元年10月3日1736年11月5日))は、江戸時代前期から中期にかけての公家


近衞 基熙(このえ もとひろ)は、江戸時代前・中期の公卿。主に東山天皇(113代)と中御門天皇(114代)治世の朝廷においてその中枢となり、江戸幕府との関係改善に尽力した。五摂家筆頭の近衛家当主。

    
近衛 尚嗣(このえ ひさつぐ、元和8年3月10日(1622年4月20日) - 承応2年7月19日(1653年9月10日))は、江戸時代前期の公家藤氏長者官位従一位関白法号は大元。


近衞 信尋(このえ のぶひろ、慶長4年5月2日1599年6月24日) - 慶安2年10月11日1649年11月15日))は、江戸時代前期の公家藤氏長者官位従一位関白。幼称は二宮。法号は応山。


後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日1571年12月31日) - 元和3年8月26日1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日1586年12月17日) - 慶長16年3月27日1611年5月9日))。は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。