源平合戦


フクイチのは後で見るけど、こっち先に。

結論から言うと、この源平合戦

源義仲平氏滅亡となっている。

これ、逆算するといいんだ、だから。

そうなると、義仲はうちの血統だから、あと滅亡したとされる
平氏はペルシア民族だな。

つまり、これ
桓武天皇の流れが残るように仕組まれた作戦だったということ。

何度も書いてる源頼朝は源氏といえども、北朝サイドを立てている結果になってる。その頼朝の部下が島津、つまりアキヒトんとこなわけ。

ということは、この敗れた平氏というのは桓武天皇に邪魔と見なされた平氏というか、今思うのはペルシア系統ではないかと
いう気がする。その系列には平将門も入ってると思う。

これでどちらが南朝北朝か、推測できるのではないか??

また、平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受け、また講堂と三面僧房が失火で、西が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門鐘楼が倒壊したりといった事件が起こるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田荘に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。やがて、南都の有力権門として内外に知られるようになり、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。

桓武天皇、あたしは百済移民豪族の皇子と指しているけど
これ、嫌がってるもの。桓武天皇という人は、百済移民の系統だから中国寄りのものが嫌いだったワケ。んじゃ何で??
百済は中国の唐に負けた移民系統だから。だから焼失させられた。と言うことは、勝ち残ったとされるサイドは桓武天皇サイドとなる。では、唐とは如何なる国だったか。教養のある統率のとれた国だったと思うよ、その時は。
その唐国の書物。
過去にたびたび載せている。

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

←そうすると、こっちはペルシア系統と古代中国民族って感じかな??正確には魏系とは違うけど、思考的にはこちらサイドだったということか・・。

そうすると問題なのは今の韓国人が、奈良の大仏百済仏と言ってる件。なぜ百済仏と言われるのか。それは作らせた天皇桓武天皇系統だから。現状、百済仏と言われる段階で、百済天皇さんのアキヒトにお帰りいただかなくてはならん。そのためには、百済仏と言われるそこが、あちらの国で自分らの系統だと言えば、いくら源平合戦の時に焼失させられた、同じ立ち位置でも、かばうことは出来ない。


治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。
一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある[1]


損害
東大寺興福寺が焼失
Sasa Rindo.svg源義仲側滅亡

Ageha-cho.svg平氏側滅亡