真田幸村の墓?佐賀・名護屋に 地元住民言い伝え


写真が小さい 彫字が見えない。

ただ石の形 大きさ 並べ方 見た感じはそうではないかとは思える。

一番左の塔が最後に建てたヤツ 後からそこにまとめたんだな。

そこで死んだという言い伝えと、中央の石と右側の石

これをちゃんと立てて、左の供養塔みたいなものを建ててやった人がいる。

そのまとめた時期がその供養塔の時期。三輪の塔らしきものも石で作ってるな。

角に風化が見受けられる 慰霊塔に傾けてある小さいほう。それ古い。

あとその後ろの竹林と 角の木は昔からある たぶん。その時のまんまだと思う。

その位置にあたしだったら やっぱり墓を建てるかもしれん。

そういう場所。あと、手前の小さい石 右側 そっちにも石がありそうだな。

ということは、幸村だけでなく5人以上 そこに眠ってる。

あと、戒名は江戸以前は 特定の人しかもらえないか 主流ではなかったと思ってる

ので、彫字があったら、戒名というより 名前の字を数文字とって

あとは当て字というか。文字数は昔 少なかったと思うね。

江戸以前 時期に応じて風化が どんどん過去を消してしまうものだな。

しかし、ここがその人の場所だと残す場合と残さない場合が存在してたと思う。

それは、殺される やられる側という認識ある派閥は逆に石を壊されてしまう

恐れがあるから、見つからないようにした。彫字でその名前を刻めるのは

ここにいるぞと残せる自信のある人で、

追われてる身分だと名前を入れるのに躊躇する。

そこまでわかってるのも、日本で戦争があった証拠。

放火・強奪・襲撃・こんなものが多々あったんだから。残ってる文献は逆に

燃やした側という認識だ あたしは。あたしんちは燃やされた側。

あと、今 わかった。秀吉殿下は結局利用されたんだ 朝鮮半島移民に。

だから朝鮮犬 これ食用としての輸入な。あとは子供 特に女の奉公産業。

この突破口を作るように動かされて、捨てられたの。

その部下だ 幸村は。

かわいそーにな。そのおおもとは、当時の朝廷だな そーすると。

当時の時期だと朝廷は百済子孫たちだから。百済子孫たちは自分たちの出所もと

に秀吉を行かせて、迎え入れてしまったんだ。秀吉の情もあっただろうが

当時の朝廷に仕向けられた結果。ほんで、秀吉は百済に飲み込まれて死んだ。

その秀吉を飲み込んだ百済移民と朝鮮女たちが、のちに大奥に関係していく。

それをつないだのが、当時の天台宗だ。会津出身の天海。

ここで、また はっきりしたな。百済移民とあたしの血統の戦争は大昔から

起きているってことが。

あたしは古代中国系の血統で、百済移民はそののちに入ってきた豪族

唐に負けた豪族が、日本で武力行使して作った朝廷というより城のカルト先駆者。

今、それがアキヒト。

とんでもない豪族だよ あの連中は。こんなに韓国人まみれになってさ・・・。

過去の南朝の部下たちが憤慨してるだろうなぁー

そのために戦ったんだよ 南朝は。昔から移民を入れようとする百済連中と

長いこと戦って戦力を消費してきた。

あたしも早死にしそうだ。