夏王朝の遺跡


1期および2期からは石器陶器を作る工房が発見され、その基調は農村文化


二里頭遺跡

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二里頭遺跡(にりとういせき、二里头遗址拼音: èrlǐtóu yízhǐ)は、中華人民共和国河南省偃師市の二里頭村で発見された新石器時代末期から青銅器時代にかけての都市宮殿遺跡である。1988年全国重点文物保護単位に指定された。
1959年に発見されて以来発掘や研究が進められている。1960年には規模の大きな宮殿の基壇が発見されており、中国初期王朝時代に属する最古の宮殿建築とされている。二里頭遺跡紀元前1800年から紀元前1500年頃の遺跡と見られ、中国の史書の時期に相当するため、中国ではこの遺跡は夏王朝の都の一つと考えられている。しかし都城・城壁の跡は発見されていない。また文字資料は出土していない。
これまで発掘された二里頭遺跡は4期に分けられている。1期および2期からは石器陶器を作る工房が発見され、その基調は農村文化である。3期と4期からは青銅器工房と宮殿が発見された。宮殿の遺跡は2つあり、一号宮殿址は南北100m、東西108mの方形の基壇の上に建てられ周囲には塀などが発見された。そのすぐ近くにある二号宮殿址は東西58m、南北73mの基壇が発見され、その北に大きな墳墓があるため、祭祀のための施設とも考えられる[1]。近年はさらに大きな都市や道路の遺跡も発見されている[2]
中国の考古学界には二里頭遺跡がどの王朝の遺跡であったかに関して様々な推論がある。ひとつは1期から4期までの時期から夏朝の文物が出土していると見てこれを夏王朝の都とみる説であり、また1期と2期からは夏朝の文物が、3期と4期からは殷の文物が出土しているとして、大きな宮殿は殷の初期のものであると見る説である。
二里頭遺跡から約6km東には殷初期の大規模な都城遺跡が見つかっている(偃師商城)。

洛陽市

地名の由来[編集]

洛陽の南には洛水が流れており、これが地名の由来となっている。「陽」は「日当たりのいい場所」の意で、河川などの北側の土地をいう。なお、山の場合は「陽」は南方にあたる。
また、洛陽の北に北邙山があり、昔の王侯や貴族たちはほとんどここに埋葬された。北邙山の本来の名前は邙山である。邙山が洛陽の北に位置するので北邙山と呼ばれるようになった。元々北邙山は景色が美しい名山であった。しかし、その秀麗な景色を穴場とした高官たちが一つ二つと北邙山に墓を作り、北邙山を墓地にした。

地理[編集]

河南省西部にあり、黄河中流にある。総面積は、15,208 平方キロメートルであり、区部の面積は 544 平方キロメートルである。黄河洛河伊河澗河瀍河が領域内を流れる。東に虎牢関、西に函谷関、北に邙山、南に伏牛山がある。中岳嵩山も隣接する。古くから兵家必争の地であり、歴代の帝王が都を建てようと考えた土地でもあった。
洛陽市の気候の特徴は、四季がはっきり分かれ、冬は寒くて降水が少なく、春は乾燥し風が多く、夏は非常に暑く雨が集中して多い。秋には晴れて日照時間が長い。年平均気温は摂氏 14.7 度、年平均降水量は601.6 ミリメートルである。

歴史[編集]

東周平王の時代、戦乱により荒廃した鎬京(長安)より都が移され洛邑と称した。これ以降、中国古代の政治経済の中心地の一つとなり、後漢曹魏西晋北魏後唐などにおいて都城が設置されている。また長安を都とした王朝でも、この洛陽を副都とした王朝が多い。
漢代では、火徳とする漢王朝に洛のサンズイが忌まれ、雒陽に改名された。しかし、土徳とする三国時代の魏により元の洛陽に戻された。また、唐代の中間にある女帝武則天の国の武周690年 - 705年)では神都と改名されて都となった。これも唐の復活により元の洛陽の名に戻された。