頼光の孫、頼綱が、満仲の遺産を北朝の大江に献上した。

源頼光
満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。
源頼国
生涯[編集]
頼国の五男であったが摂津源氏の嫡流を継承する[3]。頼綱も父祖に同じく摂関家と緊密な関係を築き、関白藤原師実に家司として仕える一方、蔵人、左衛門尉、検非違使などを経て、下野守、三河守を歴任し従四位下に昇った。武門としての主だった事跡に乏しいが、承暦3年(1079年)の延暦寺の強訴の際には在京の軍事貴族として源頼俊(大和源氏)や仲宗(信濃源氏)、平正衡(伊勢平氏)などと共に都の防衛にあたっている(『為房卿記』)。寛治2年(1088年)10月の春日祭では当時左中将であった藤原忠実の前駆を務めた(『中右記』)。
親族に多くの歌人がいる環境にあり、頼綱もまた和歌に秀でた。永承年間(1046年 - 1052年)の「六條斎院歌合」から嘉保(1094年)元年の「高陽院七番歌合」まで6度の歌合に出席しており、大江匡房や能因、源俊頼などの著名歌人らと交流があったことが知られ、その詠歌は『後拾遺集』以下の勅撰和歌集に計8首入集している。また、頼綱の時代に本拠地・多田庄を摂関家に寄進したとされており、曽祖父・満仲(多田満仲)以来の由緒ある名乗りである「多田」を家号とし、「多田歌人」と呼ばれた。
嘉保3年(1096年)、左兵衛尉に任じられ、翌承徳元年(1097年)正月に叙爵。摂津源氏の本拠地多田荘を継承し摂関家に近侍した兄明国に対し、仲政は白河・鳥羽両院に仕え、検非違使、皇后宮大進、兵庫頭、下総守、下野守などを歴任、位階は従四位下(一説には従五位上)に至った。
皇后宮大進在任時の天仁元年(1108年)には仲政の郎従が尾張権守藤原佐実を襲い刀傷を負わせる事件を起こしたが、これは佐実との愛人を巡る争いが原因であった[2](『中右記』)。この話は後に『十訓抄』にも載せられている。また元永・保安年間(1118年 - 1124年)には、西国で朝廷に背いて(源義親の乱)追討を受けていた源義親を自称する者が出現し、これを捕らえるという勲功を上げている(源義親の乱)。
源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。摂津源氏の源仲政の長男。朝廷で平氏が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した公卿の従三位に叙せられていたことから源三位(げんざんみ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。
保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平氏の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平氏の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。