白江村で戦死した阿曇氏 これすなわち、あたしとまったく関係ない事が立証されたな。


海神の子孫??  

阿曇族 安曇族 当て字の字を変えていっただけ

もともとは蜘蛛族 蜘蛛を曇と書き雲と当て字を変えた。

海神の子孫だと思ってんのか??  むちゃくちゃすぎる履歴だな。

ここに出した資料から

その1 阿曇氏は海神の子孫とされていた
→あたしと関係なし!

その2百済の天智が書いた日本書紀によると応神天皇の項より海人の宗に命じられた??
→自称海神が応神に海人の宗と命じられる?? 時代背景おかしくない??

その3百済の天智が古事記にて、阿曇連は綿津見神の子とされた??
百済移民がいちいち表彰するっていうのは、百済に尽力した勢力であり、それが日本史だということではない!

その4出雲と安曇はたぶん出目が同じと推測

その5穂高神社には安曇氏は白江村の戦いで戦死と伝記されているが、その白江村の戦いはつまり、新羅+唐VS百済+倭(漢と秦)で百済と中国難民勢の敗北。つまり、その連中は敗北者で、あたしの血統はそれとまったく違う。

なんだか知らんが、古代中国民の文明をぶっ壊しやがった連中が、どうしても日本の歴史は百済と漢にしたいらしい。

どっちも詐欺強奪カルトなのに。あーつまりこの連中 ユダヤとそっくり。

あたしはユダヤではない。

あと古代天皇ユダヤではない。

ユダヤが先人ぶっ殺して上書きして生きてきただけ。そのために殺された人たちを
とむらうためには、そのぶっ殺して上書きした歴史自体が捏造上書きされていることを解読していかなきゃいけない。


あと、そのユダヤ人たち ペルシアのお供で日本に入ってきた便乗の民なんだよ。
ペルシア人ユダヤに優しくしたがために、連れてきてしまったんだろう。

そのペルシア人が聖徳大使ならば、その頃になだれ込んだユダヤが長野に石を積み
皆神山を装飾した。本体は山。切り石を並べまくったのと、山に洞窟を掘った。
それがユダヤだろう。その滞在期間に、御柱祭を伝えたと推測。時期合ってると思うよ。

あとその時に来たペルシア人たちは優秀だったんだろうし、貿易にも対話してくれたんだろうが、そのルートに中国と朝鮮を経由していたんだろうから、その時にその場所に何かが残ったんじゃないのか??

最終的に、ペルシア人たちは源平合戦でことごとく散った。それに関与したのは百済、つまり朝鮮であり、北朝と言ってる百済朝廷。その中に秦王朝時代や殷王朝時代の流れものなんかも混ざっているだろう。あたしはその関係は大嫌いだと提示してる。その子孫たちは、表面には出さず友好的に近寄ってきて、ちゃんと敵か味方かを
把握した上で相手に対して態度を変える。それを見てきたあたしは、それと同じやり方をする。

まず日本書紀古事記で悪者にされた連中は、それを書いた百済の敵と見なされている。

そして、その時から百済民は、中国を立てていた。しかし、大間違いなのが、
立てた中国の民族が、漢系だったこと。
んじゃ、なんで神功や応神などは記録されたか。それはその人たちの末裔が死んでるから否定する人がいないと見込んで、利用したんだ。ところがどっこい、生きてるから。それがあたしの親族。

その百済移民の天智は、自分らの都合のいいように記録をした。それをあたしがわかった以上、それをどう解読していくかだけ。


阿曇氏

阿曇氏(あずみうじ、安曇氏)は、「阿曇(安曇)」をの名とする氏族
海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族。阿曇族安曇族ともいう。
氏姓 始祖 種別 本貫
氏神とする志賀海神社福岡県福岡市
阿曇宿禰
綿津見命
神別地祇
筑前国糟屋郡阿曇郷

記紀に登場し、「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、「古事記」では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。その他、「新撰姓氏録」では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E6%B0%8F


ja.wikipedia.org/wiki/出雲国造 - キャッシュ
出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、出雲国(現在の島根県東部地方 )を上古に支配した国造。その氏族の出雲氏の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の 称号を受け継いだ。 『先代旧事本紀』の巻10『国造本紀』によれば、第10代崇神...


御船祭[編集]

御船
例大祭は「御船祭」と呼ばれ、毎年9月26日・27日に行われる。高さ6m・長さ12mにもなる大きな船形の山車(だし)「御船(おふね)」をぶつけ合う勇壮な祭で、長野県の無形民俗文化財に指定されている。なお26日は神事のみで、本祭りは27日である。9月27日は663年(天智2年)白村江の戦いで戦死をされた阿曇氏の英雄「安曇比羅夫命」の命日と伝えられている。