東北 あたしの近辺の大きい古墳は4~5世紀。わかった?? 夏・周・魏は日本に来てたの。
うちの系統は松島や多賀の入り江 あとその界隈使ってたの。
百済が来たから、前線エリアで新地に製鉄所構えてると思うよ。
武器を主に作ってたんじゃないかと思うね。戦するために。
中国の河川ルートがグチャグチャのとこは、大昔から手つかずなんだ たぶん。
やる人たちが土地を離れたから。戦ばっかりしてんのに安全じゃないんだから
やるわけがない。つまり、殷がそうしてきた結果。
言語はね。同じ中国大陸から来てれば通じたの。あと、残ってるものは
ことごとく桓武平氏たちがぶっ壊した。
ほんで奈良 京都に文化圏を作ったんだろうね。やることがゲスイと思わん??
農村や治水 山こそが日本人の生きて作ってきた遺産。
だから中国にも夏王朝の文化を示すものが ほとんどないんだ。
その遺産は、豊かな土地にのみ残されてるいるはずだ。
雷神山古墳
本項では、雷神山古墳に隣接する小塚古墳についても併せて解説する。
当初の国府は郡山遺跡と推定されており、名取郡にあったとされる。神亀元年(724年)に宮城郡多賀(現在の宮城県多賀城市)に多賀城が建設されると同時に国府もここに移された。遺跡調査からこの国府が10世紀に廃絶したことがわかっているが、文献史料からはその後も多賀国府が鎌倉時代、南北朝時代に存在したことがわかっている。場所はやや西の岩切駅(現在の仙台市北東部)付近に移ったと推測されている[7]。
→これ あたしの推測だけど雷神古墳が4~5世紀
そんで国府は郡山と多賀 これは合ってると思ってる。
その根拠を教えるけど、国府は当時 海 つまり船を移動手段に使ってたフシがある。
その近くが機能するはずだから。あと、雷神古墳 あと塩釜と松島
この中間あたりに位置するのが郡山だったり 多賀だったりする。
郡山と多賀は似たような機関だったと思われる。
6世紀の陸奥の国造は、道奥菊多(のちの菊多郡に相当)、石城(磐城郡)、染羽(締葉郡)、浮田(宇多郡)、思(日理の誤り)、白河(白河郡)石背(磐瀬郡)、阿尺(安積郡)、信夫(信夫郡)、伊久(伊具郡)の10国造である(「国造本紀」)。孝徳朝の後半に第二次の使者が派遣されて、国造制が評制へと変わり、道奥国(みちのおくくに)が設けられた。
→6世紀ってことは製鉄遺跡の時期だな
あと浮田(宇多郡) これははじめて知ったね。やっぱり鹿島なんだ。
ついでに言うと、松ケ房ダムって別名 宇多湖って言うんだよ。
南朝の黒木氏の縁。そこを桓武平氏について、占拠しまくったのが千葉氏から出た相馬だよ。あと、相馬に残ってる南朝の証拠が、宇多川。住んでる人たちは、この南朝の土地にいた南朝血統を貶めて生きてきたんだ、野馬追いでオラオラ騒ぎながら。
後醍醐天皇の建武の新政期には一時期親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として赴任した。南北朝の争乱期においては、多賀城は南朝と北朝の係争地として北畠顕信や吉良貞家・畠山国氏らが争った。南朝勢力の駆逐後奥州管領が4人並立する事態となるが、斯波氏がこの争いに勝利して大崎地方に勢力を扶植し大崎氏を名乗るようになる。その後鎌倉公方足利氏満の支配下となるが、子の足利満兼の代となると篠川御所・稲村御所を設置するも伊達政宗の反乱を招く。また、奥州の在地領主が幕府と直接主従関係を結び、京都扶持衆と呼ばれる関係を築いた。
鎌倉公方と室町幕府の関係悪化によって、幕府は奥州探題を置いた。当初、大崎氏が奥州探題を世襲していたが、南北朝の争乱以降在地領主の権限が強く、その権威は名目的なもので、権威が及ぶ範囲も限られていた。戦国時代になると陸奥国南部(現在の福島県北部)の伊達氏が台頭し、伊達稙宗が陸奥国守護を任ぜられ、大崎氏が伊達氏の勢力下に組み込まれるに至って、奥州探題の地位も伊達氏に奪われた。
→これ 伊達がいかに凄いかってことと、ここらにどんだけの力あったかって事。
それが混乱招いたんでしょう。しかし、北畠の前が北条で、その後が島津・島津と続いてますんで、ここは北畠の家系のあたしに陸奥 返していただきたいと書いてるわけです。
それでおもしろくない人たちもいるでしょう。しかし、それがおかげで北海道と東北で、貨物新幹線までこぎつけてんです。これが侵略とみなされるか、共存と繁栄を尊重されて見られてるか その違いです。 現在、東宮は七ヶ浜町に東宮神社として残り、南宮も多賀城市に南宮神社として残る[10]。北宮は北宮神社(きたみや)として利府町の春日神社の境内社として残る[10]。西宮は江戸時代に冠川明神と呼ばれ、明治期に鹽竈神社の別宮に合祀されて志波彦神社となったが、分霊が冠川神社として元の所在地にある八坂神社に境内社として戻った[10]。4社いずれも鹽竈神社の境外末社となっている。
→あと海神信仰 これ そもそも対馬方面から来てるものですが、なぜ古くからあったかと言うと、古くから船移動してたんですよ。その資料が残ってるかどうかなんだけど。
船着場として利用されてると思う。そこがうちらの第二の海神神社だったんだと推測してる |