松代つながりで佐久間象山 出てきちゃったよ



そして象山くん どうもうちと接点ありそうなんだな・・・

魏源の魏は、あたしが言う魏 の魏

あとさ・・・徳川幕府だの 明治政府だの

有名な立派な施設にいる連中

あとは軍隊バッチの数が多い連中

それらが国を動かしてたわけではないのが、よーく わかってくるから。

こんな福島の片田舎にいる人間たちが いかに昔からの幕府に関与していたか

史書からは見つけられないものを見つけられる

世間が知ってる有名人が どれほどの事をしたのかは あまり偉大でもなかった

という事。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 魏源の用語解説 - [生]乾隆59(1794)[没]咸豊 6(1856)中国,清の公羊学者。湖南省邵陽の人。字は黙深。道光帝に仕え各地の知州 となる。歴史,地理に精通し,民族的危機を自覚して実用経世の学を志した。詩文集『古 ...

魏 源(ぎ げん、Wei Yuan1794年 - 1856年)。もとの名は遠達、字は黙深・墨生・漢士など、号は良図。の思想家。
湖南省邵陽県金潭(現在の邵陽市隆回県金潭)の人。1831年より揚州に居住した。林則徐と親しく、新思想の提唱者として中国を「世界に目を開かせる」役割を担った知識人の代表である。官職は高郵の知州に至った。晩年は杭州に隠棲して仏教研究に打ち込み、法名を承貫といった。杭州で死去。

『海国図志』の中で魏源は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べて、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしている。

日本での『海国図志』受容[編集]

典礼問題阿片戦争で揺れる清よりも、むしろ魏源が伝えようとした西力東漸の危機感を真剣に受け止めたのは日本であった。清朝阿片戦争の敗戦に危機感を募らせた当時の日本では『海国図志』は吉田松陰佐久間象山らによって読まれ、速やかな体制転換の必要性が日本国内広まっていくことになる。一方、清朝国内では「香港島を与えておけば英夷も満足するであろう」との慢心が根強く、魏源が訴えた改革の必要性が国内に強く認識されることはついになかった。


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佐久間 象山(さくま しょうざん/ぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩士兵学者朱子学者思想家松代三山の一人。通称修理(しゅり)、国忠(くにただ)、のちに(ひらき)、子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。位階正四位象山神社祭神象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。



136 :名無しさん@1周年 (ガラプー KKc7-63Z6):2016/01/30(土) 20:30:55.63 ID:
>>132 
長野には松代があるが、お隣の新潟にも松代があるんだぜ? 
読み方は「まつだい」だがなwww 

お城もあって三月には「のっとれ!まつだい城」というお祭りがある