あと産経・こんな記事書いた責任重大。後奈良天皇から正親町天皇代は朝廷の財政ひっ迫は確定134年。それ以降も続く。
南朝が悲劇ばかり語っている??
南朝の悲劇は国民の悲劇だぞ??
王でもないのに王と名乗り国費を流用しまくったのは
国が統一されていると思うか??この不平等な歴史の扱い方。
幕府を困らせるため。
幕府の権力が欲しかったらしい当時の朝廷はもちろん北朝。
農民一揆は、土建の出来ない能無しが農民を使ったことによる
不作。
そこから年貢をかき集め、城を作ろうとする武家。
そして朝廷に貢ぐ。
ひとつは、出ていっても坊主に囲まれて洗脳され寝返ってしまう精神の植えつけをされてしまうこと。
もうひとつは、自分らが戦っても死ぬのは部下。その部下を作るには、かなりの人命を失い、同じ事を繰り返してもまた人命を損ねると考えたこと。
もうひとつは、戦争を考えれば金が必要。武装するにも兵隊の生活に関わるものにしても。遠征費用も莫大になる。それを集めるのに、農民から貢がせるか??
当時の坊主はずいぶんと金集めてただろうな。
その坊主が朝廷に金を持って貢ぎにいくのだから、延々と
北朝は潰れない。
唯一、朝廷に金がなくなってきた時代が後奈良天皇の時。
今じゃ三種の神器は意味がなかったとあたしが提示しているけど、とりあえず当時はこの神器移転で和睦とされた。
それが1392年
そして朝廷が金がなくなったのが1526年・後奈良天皇の際が
最初。
その間134年朝廷はひっ迫し続ける。
後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日) - 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇(在位:大永6年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。諱は知仁(ともひと)。
略歴[編集]
明応5年(1497年)1月26日、権中納言勧修寺政顕の屋敷で誕生。大永6年(1526年)4月29日、後柏原天皇の崩御にともない践祚した。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、10年後の天文5年2月26日(1535年3月29日)にようやく紫宸殿にて即位式を行う事ができた。寄付した戦国大名は後北条氏、大内氏、今川氏などである。
後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の第99代天皇にして、南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)冬 - 元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日))。諱は熙成(ひろなり[2])。 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。
正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) - 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) - 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。
朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。永禄11年(1568年)、織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した[4]。 この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れていた。信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた[5]。元亀元年(1570年)の朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正2年(1574年)には、信長に蘭奢待の切り取りを許可し、天正5年(1577年)には信長の最高位となる右大臣を宣下した。