君が代




  • 古今和歌集』の「君が代」については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、古今和歌集醍醐天皇の勅命によって編まれた『勅撰和歌集』であり皇室から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため、後に有名な『平家物語』(巻七「忠度都落ち」)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『千載和歌集』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように、紀貫之は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。


上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは皇室ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良)もしくは別名「筑紫の君」(九州王朝の君主)と推定。

なお、『太平記』には、「君が代」が奉納される山誉め祭の神楽とも関係する、阿曇磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記述が存在する。
  • 神功皇后三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、アワビカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで住吉神は海中に舞台を構えて『磯良が好む舞を奏して誘い出すと』、それに応じて磯良が現れた。磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠(日本神話海幸山幸神話にも登場する)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。



まず天孫族と語る安曇はうちと関係なし!この昔からの呪縛を解く。

それから、太平記に綴ったということは、もちろん南朝が海神と繋がりがある事を指す。

それが南北朝時代にすでに認知されていた事を指し、太平記に海神にまつわる神話的なものを書いたのは、その八幡の血がいかに神がかりな血かを残すために装飾したものと推測する。

君が代は、あたしの系統 八幡

太平記を漁れば いろいろと見えてくるものもあるだろう。

あと志賀は当時のその頃だけは歓迎してくれただろうが、志賀をその時使う前は隠岐

対馬が船着場。これはあたしがその土地に対してそう感じるから。