孔子と魯

孔子が魯に儒教を残した理由や背景など広範囲にわかった。

それを書いていく。それと同時に孔子を今 あたしの手で ここに描く。

孔子が魯に残したかったのは儒教というより゛御霊信仰゛゛故人に対しての礼゛

そして「礼」

孔子が独学で作り出したのは学問。そのうち、軸となったものがこれ。

〓魯に残る伝統文化〓

ここにある魯に残る文化こそがイケニエ文化 選ばれた人が毎回 祭事でイケニエに

出されて食われた。それが孔子が小さい時からあった文化。

そして、孔子自体は好んで人肉を食ってたわけではなく、

たぶん 物心ついた時にはすでに親から出されて食べていたと推測。

そう思える根拠が、孔子の体格。とても背の高いという評判が残されている。

筋肉質だとか、体格がいいとか そういう記述でなく、ただ大きいという

その記述だけ残されているのは、背が伸びる食生活をとれていた事を示す。

その孔子が、どうしても納得いかなかったのが肉を食す この行事あるいはイベント

あるいは文化に抵抗があったからに他ならない。

そんな孔子が、魯から旅立ち、あたしがブログで指摘した秦系 つまりは殷

殷のとこになぜわざわざ出向いて滞在を続けたか。

その殷の場所でこそ、イケニエ文化が強く、人の狂気も儀式もカルトなみに

行われていた。そのため、各地の死生観を確かめるために各地を放浪した。

その魯公室の分家が三桓と記されてることから、完璧にイケニエを出してた事は

明白。混乱というのは、不幸のたらい回しが起きて、次は誰 次は誰

刈り取られていく人命に、人々がおびえ、さらにその民族は他人の作ったものは

横取りする性質があるため、財産に対しての不安、生活に対しての不安が

トグロ巻いていたと思われる。

魯の古い礼制こそ イケニエを出す儀式の事。

孔子の死後 ますます魯は衰退したとされているのはたぶん事実で、三桓たちの

武力行使と強奪に弱って、人々が移動した事も指すんだろう。

また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。しかし祭祀のために戦争捕虜を生贄に捧げる慣習が、周辺諸氏族の恨みを買い、殷に対する反乱を招き、殷を滅亡に導いたとする説もある。


(ろ)は、中国王朝名・地名。地名としての魯は現在の中国山東省南部を指す。山東省全体の略称(雅名)としても用いられる。
王朝としての魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、中国大陸代、春秋時代戦国時代に亘って存在した国である。代々の魯公(魯の君主)の爵位侯爵であり、姓は(き)である。首府は曲阜
周公旦王朝の開祖である武王の弟で、武王の子成王を補佐した)の子伯禽成王によって封ぜられて成立した。
春秋時代に入ってからは、といった周辺の大国に翻弄される小国となる。しかも、国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、国政はたびたび混乱した。
しかしながら、この混乱した小国が思想史・文化史に果たした役割は大きい。周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の伝統を受け継ぎ、魯には古い礼制が残っていた。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、魯の出身である孔子であり、その一門である。孔子儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化というものがあったからともいえる。ちなみに孔子が魯に仕えていたのは若年時のみで(?)、老年期まで各国に弟子と共に放浪していた。なお、「春秋」は、隠公元年(紀元前722年)から、哀公14年(紀元前481年)までの魯国の年次記録が基になっている。
孔子の死後、国としての魯はますます衰退し、事実上三桓氏に分割されてしまう。魯公室は細々と生き残るが、紀元前249年に併合され、滅亡した。