寿命をまっとうできなかったんだね そのシャーマン世界では。孔子が言いたかった事。たぶん・・・


孔子が三桓に反撃したというのは事実。つまり孔子も人食いと戦っていたって事。

ただし、孔子の場合は生まれた時からそういう土地文化があったために、小さい時からそれが食事に出ていたから、拒否などもなく受け入れてたその事象が、実は人肉だったという事実と対面し、考え方が哲学的に向っていったというのが本当だと思う。

翌年の紀元前497年に官を辞し、弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。

そして孔子が死ぬ前にまとめたかった事 それを残していこうとした。

ここにすでに答えがある。

仁つまり 持ち合わせるべき優しさと総体的な愛情 

義は精神の軸とあり方 秩序 ルール

礼は振る舞いと挨拶 ルール 

孝は行動と労徳

忠はまっすぐな信仰

紀元前484年孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行なう。この年、子の鯉が50歳で死んでいる。


孔子は3歳の時に父の叔梁紇を失い、母の顔徴在とともに曲阜の街へと移住したが、17歳の時に母も失い、孤児として育ちながらも苦学して礼学を修めた。幼少期には、母の顔徴在の影響を受けて、葬式ごっこをして遊んでいたという。しかし、成長してから、どのようにして礼学を学んだのかは分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖・周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せているが、細かく確認することこそこれが礼であるとの説もある。また、老子に師事して教えを受けたという説もある。

20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子林彪を結びつけて批判する運動を展開[2]孔子封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥孔子学院を参照)。



孔子にはシャーマンの思考と、イケニエになる人の究極な場面を

何度も見たんだろう。

その場面では、強行でかり出される人 あるいは自分から前に「出ます」という人

その立ち位置の人に対して 毎度 複雑な心境になり、なおかつ学問のない所や

秩序の末端では、腐り果てた肉までむさぼるような荒廃に そこに生まれる子供

そういう生と死の狭間で 人の人命の尊重や その人があっけなく死んでいく様に

忘れられるというおまけまで付いて、悲しくなった事だろう。

たぶん、その頃はお墓を建てる習慣はなかっただろうし、その権利も人民になかった

んだろう。

ただ、食べられても また新たに生まれ変われるから 今度こそ幸せになれます

ようにって感じで死んだ人もいる??

寿命をまっとうできなかったんだね そのシャーマン世界では。

しかし、現代において この真似をしても シャーマンを処罰できる。

それが何千年とその時代を経て 中国や日本が手にした答え。

だから、祈祷だけで人の寿命を操作してはならないっていうのは定義。

ただし、これが残ってる地域 あるいは民族がいる??

もちろん 最近 中国でも処罰になったよな??

日本でも祈祷師に関わる死体が出た時は、きちんと刑事事件になるよ。

だから 現代では これは 社会的には制裁対象。