三島由紀夫のじいさん 百済に相当ハメられてるな。もう~ こんな暗殺事件は通用しないから安心しな。


あと平岡定太郎の孫が割腹に使った刀はうちから出たヤツだって言われてきた理由

ちゃんと繋がってるんだ。

平岡定太郎

平岡 定太郎(ひらおか さだたろう[1]文久3年6月4日1863年7月19日) -昭和17年(1942年8月26日)は、日本内務官僚樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等兵庫県平民[2]
作家三島由紀夫の祖父。農商務官僚平岡梓の父。

経歴[編集]

文久3年6月4日、播磨国印南郡志方村上富木(現在の兵庫県加古川市)に、農業を営む父・太吉と、母・つる(寺岡久平の長女)の間に二男として生まれる。
少年の頃は、皇道精神を基調とする鼎(かなえ)塾に学んだ[3]。ここでは忠君愛国の講話が行われた[3]。兄萬次郎はやがて姫路洋学塾へ進み、定太郎も同じ地の師範伝習所へ入った[3]。伝習所はすぐ神戸へ移り、神戸師範御影師範学校、現・神戸大学)と改称、入学年齢は「二十一歳以上」とあったが、明敏な定太郎は16歳で許され3年間の寄宿生活を送った[3]
その後上京し、牛乳配達、書道塾の教師などを務め、二松学舎早稲田専門学校(現・早稲田大学)、開成中学を経て、大学予備門(現・東京大学教養学部)から、明治22年(1889年)9月、26歳で帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)に入学する。在学中の明治25年(1892年)3月、福原鐐二郎との共著『国際私法』を金港堂から出版する。
明治25年(1892年)7月、帝国大学法科大学を卒業し、内務省に入省する。明治26年1893年)11月27日、永井岩之丞の長女・夏子(なつ)と結婚。翌年の明治27年(1894年)10月12日、長男・を儲ける。同年10月、徳島県参事官に就任。明治28年(1895年)5月、栃木県警部長に就任[4]明治30年(1897年)、衆議院書記官に就任。明治31年(1898年)、衆議院書記官兼内務省参事官に就任。その後、内務省参事官兼内務事務官高等文官試験官などを歴任する。明治32年(1899年)、広島県内務部長に就任。明治35年(1902年)、宮城県内務部長に就任。明治38年(1905年)、大阪府内務部長に就任。
明治39年1906年)7月、原敬の命で福島県知事に抜擢され就任。知事として、保育所、幼稚園、農学校、商業学校、女子技芸学校にいたる各種教育施設や、公園、鉄道をつくった。明治41年(1908年)6月11日、樺太庁長官に就任。樺太の森林資源開発、パルプ工場建設、鉄道施設・港湾の整備、船舶の航路、炭田の開発などに尽力する。大正2年(1913年)、南満州鉄道会社の総裁候補になり、新聞に名が挙がる。大正3年(1914年)6月、反政友会農商務大臣・大浦兼武の策謀による公金流用疑惑のため、原敬樺太庁長官の辞意を伝え、辞表を提出する。大正5年(1916年)5月、定太郎の公金流用疑惑「漁業資金・印紙切手類事件」に無罪の判決が下る。その後、定太郎は南洋精糖株式会社取締役、蓮華鉱山合資会社社長などを歴任後、大正9年1920年)10月、東京市道路局長に就任するが、同年12月、東京市道路局長を辞任。大正10年(1921年)11月4日、定太郎の後ろ盾であった原敬暗殺される(原敬暗殺事件)。
昭和5年(1930年)8月22日、前樺太庁長官の定太郎を顕彰する銅像樺太神社に建立され、除幕式が行われる。昭和9年(1934年)5月9日付の新聞に、明治天皇の親筆と偽った書を売り捌く詐欺団首魁として逮捕されていたことが顔写真入りで載るが、2ヶ月後の7月、怪しげな連中にただ担がれただけ、と判断され不起訴となる。昭和14年(1939年)1月18日、妻・なつ潰瘍出血のため死亡し、その半年後、定太郎も軽い脳溢血の発作を起し、杖を離せなくなる。昭和17年(1942年)8月26日、79歳にて死亡。菩提寺愛宕青松寺。孫・公威は詩・『挽歌一篇』を作る。