定太郎の書いた「盡人事待天命」の書を見た孫・三島由紀夫は、「お祖父さんの字は実にうまい字ですね、感心した」と言って自宅に持ち帰った。自決の半年前の出来事だったという。



平岡定太郎

人柄・性格など[編集]

息子・梓は、「僕の父は原敬さんの子分で樺太庁長官をやっていました」、「父はまったく大変な豪傑で、酒よし女よし、一世紀ぐらい時代ずれのした男でしたから、家庭経営にはおよそ不向きでありました」と記している[9]
野坂昭如によると、「細かい気くばりよりも、大雑把にひっつかみ、積極果敢にうって出る定太郎は、新天地の開拓にふさわしい器量才幹、だからこと、植民地経営に名を残し、樺太豊原市郊外に巨大なその銅像が建立され、これは、徳を慕う現地の人たちの要望による」ものだったという[10]
「威張らぬ人、役人臭からぬ人、調子の良き人」と評される。しかし、板坂剛によると、樺太庁長官に就任した明治41年(1908年)墓参りのため帰郷した際に多数のお供を公費で同行させ、道路は改修させるわ、接待は強要するわで地元民はあきれ返ったという[11]
定太郎の座右の銘は、「盡人事待天命」であったという[12]。ある時、定太郎の書いた「盡人事待天命」の書を見た孫・三島由紀夫は、「お祖父さんの字は実にうまい字ですね、感心した」と言って自宅に持ち帰った。自決の半年前の出来事だったという。は、「倅も祖父の字を気に入るような年になったんだな、と思いましたが、いま思うと倅はひそかに書の文句の方に感動したのに違いありません」[9] と語っている。
樺太豊原市にあった樺太社発行の月刊誌「樺太」10周年記念号(昭和13年(1938年)1月号)に、定太郎の談話『樺太の持つ根本使命』が掲載されている。定太郎は樺太庁長官時代をふりかえり、「その当時(わし)はアメリカで発行されてゐる『二十世紀』といふ雑誌を読んでゐたが、その中にパルプといふことが書いてあつた。何かの都合で儂はパルプの輸送関係のことを見よつたのぢやが、パルプは木材から造るものらしいことだけは解つたが、一体どんなものかの見当はつかぬ。いろいろに想像して見ると粗末な紙のやうでもある。また写真等に使ふピカピカした光る紙、あれのやうでもある。(中略)こんな風でパルプについては何一つ智識がないのだが、唯木材をこのパルプにすれば、運賃は少くて済むやうであり、需要も今度相当にあるものらしいことだけは想像される」[13] と語り、三井岩崎大川の3大資本に3つ宛工場をうまく建設せしめた交渉の芝居の経緯を披露し、人を食うような大胆な交渉手腕があった面を見せている[14]
また、定太郎は同誌の中で、「樺太なんていふものは最初から知れてゐる。早くいへば猫の額のやうなもので、雑巾で拭つて見たところで凡そ知れた面積だ。その中で木が無くなつたとか増伐の余地がないとかいつて騒いで見たところで、それが何の足しになる。(わし)は第一そんなちつぽけな根性が気に喰はぬ。(中略)樺太の使命は樺太の開発だけぢやない、日本の北方開発の為の停車場、それが樺太である。(中略)而も樺太は四方海ぢや。海の水はレールである。この四方にすき間なく敷き詰めたレールを利用して、この世界の何人も利用し得なくて今尚放置してあるこのオコツク附近の大森林を開発するのこそ、樺太の使命なんぢやらうが。(中略)今の人は儂の考へとはまるで逆だ。樺太内のこと位、どんなにやつて見ても、タカが知れてゐる。そんな根性だから、何一つ出来んのぢや」[13] と、自分の去った後の樺太行政を批判し、「樺太の根本使命を見直せ」と最後に訴えている[14]

https://ja.wikipedia.org/wiki/平岡定太郎