汚職の嫌疑で追われた樺太長官の座←これ、アイヌにハメられたんだろ

あとこういう事やった当時の漁師は、買収されて動いただろ

結果 第二次世界大戦まで突入する連中に力与えただけ

百済と八幡 そんだけで見極めれば 事件はほとんどわかる。

八幡サイドをハメたのは その漁師たち

汚職の嫌疑で追われた樺太長官の座[編集]

定太郎は赴任後の明治44年(1911年)、記者にむかってその抱負をこう語っている。「樺太の経営上、施設すべき事業は鉄道の敷設及び港湾の修築は最も急務である。いまや拓殖鉄道もその緒につき第一期線たる豊原大泊間(二十五)はいよいよ十一月六日をもって開通した。また四十四年度においてはさらに豊原より北海岸たる栄浜間の全通をも見る予定である。なお進んで伏滝支線を敷設(十三哩)し、拓鉄とあいまって貨物の呑吐港たる大泊に応急的設備をおこない、以て海陸の連絡をはかり、さらに豊原を中心として西海岸との連絡、それよりマヌエ山道を越え東西両海岸を貫通せしめる積りで其他はいずれ十数年後の施設にゆずらなければならないが、予定線完成の暁には沿道移民に与える便益は大なるものがあるであろう」。港湾開発や内地からの移民問題に触れて気炎を吐いている。この勢威あまねく定太郎の樺太庁長官としての生活はしばらく続く。だが破局がやってきたのは就任して7年目の1914年(大正3年)であった。三島由紀夫が生まれる10年前に平岡家は急転直下、没落の転換期を迎える。
当時の報知新聞をみると、大正3年(1914年)の6月2日頃から事件は紙面を大きく飾っている。6月3日には「政友会の罪悪」と掲げ「漁場払下と政友会」の関係をあばく記事を載せている。簡単にいえば、明治45年(1912年)の衆院選挙にさきがけ、平岡長官は禁漁区域内の十七漁場での操業を一夜づくりの得体の知れぬ会社に許可し、その汚職で得た十万円の金を、かねて愛顧をこうむっていた政友会の原敬(当時内務大臣)に贈った、というものであった。火をつけたのは樺太の漁業業者である。いわゆる役職を乱用した政治献金の容疑であった[8]報知新聞の「政友会の罪悪-漁業払下と政友会」の記事が出たその日に定太郎は、原敬を訪問し辞職する由を伝えた。原敬はこの日の日記に、「余は平岡の何等非難を受くべき事実なきと認める。(中略)政府の仕向は如何にも陋劣にして大浦(兼武)が主となり江木書記官長及び安達謙蔵などと共謀して平岡を陥れた。(中略)平岡を陥るるために、平岡が政友会のために漁場を利用して選挙費用を作りたりとて、報知やまとなどの御用新聞に掲載せしめて無根の風説を流布し、よりてもって平岡を傷つけ遂にその職を去らしむるか。(中略)而してこれみな大浦の陋劣なる悪計より出づるものなり、立憲政治にあるまじき所為なりと思う」と綴っている[7]
疑獄事件は「前樺太長官土人[15]漁業資金及び印紙割引料十万円横領事件」となり、定太郎は、漁場を許可した事件および印紙切手類販売事件で告訴される。花井卓蔵弁護士は、「本件は或人の党派人のために讒訴[16] せられたものであって法律上は責任無きにも拘らず、訟庭に立つが如き不名誉を負わされた」と無罪を主張した。判決は1916年(大正5年)5月23日に下り、「証拠不十分により無罪」であった。しかし、無罪にはなったものの、定太郎は樺太庁切手印紙の割引で生じた赤字補填のため自腹を切って十万円を差し出す羽目に陥った。『仮面の告白』で「莫大な借財、差押、家屋敷の売却」[17] とあるのは、ここに起因する[7]
平岡家に出入していた好田光伊が“失脚の直接的な原因となったのはどういう事柄ですか?”と定太郎に聞いたことがあった。たずねられた定太郎は身を乗り出して、“よく訊いてくれた。当時の樺太では収入印紙の値段が日本の内地よりも高価だった。たとえば5銭の定価の印紙が樺太では6銭、7銭で売買されていたが、これに眼をつけた俺の部下がこっそりと内地から運んできて売買し不当に儲けていたんだ”と答えたという[8]

https://ja.wikipedia.org/wiki/平岡定太郎