あたしんちだけが騒いでるんじゃなくて、あたしサイドの関係者はこうやって 不幸にされるんです。みんな 見ておきなさい。いかに薄汚い人間たちかを。


うちのじいさんがやられた事 想像つく??

あたしんちだけが騒いでるんじゃなくて、あたしサイドの関係者はこうやって

不幸にされるんです。みんな 見ておきなさい。いかに薄汚い人間たちかを。

あたし個人や あたしんちの人に 歴史はもう 終わったことだしとかいう連中

ほとんど 思い出してほしくない実際の加害者。アメリカと一緒。

あたし どんだけ優秀か わかってるくせに見栄張ってる人たち

死にたいんだろうなぁーと思って あたしは さらにどうしたらエグいかまで

考えるようになる。

あたしを魔物にしてんの そういう人たち。あたしにジョーク通じないんだよ。

アメリカが忘れたい事実は日本人の頭蓋骨コレクションな。

あたしは集めて返してくださいって提示してるんだ。

身の回りにしらっと近寄ってくる人たちのなんと調子のいいこと。

三島由紀夫はわかってたのかどうか いや 知ってたよな

日本の天皇家朝鮮人だって。さらに 日本がおかしい事も訴えたかったのに

ぜんぶ伝えることが出来なかった。

そのおかしい事 ぜんぶ あたしが調べて 暴露している。

いや 世間が疑ってた記事なんかも 見つけて調べる手立てにさせてもらった。

あたしのカード 事故扱いしてブラックにでもする気かな

あたし その人間たちも探し出して さらなる処刑する気だから。

天皇違うのに、なに 勝手に差し替えて 戦争おっぱじめてんの??

しかも軍隊に薬物たれ流しして。人食いも出てきて あとは本当にみじめに

とんでもないとこに置き去りにされて。

全部 百済軍隊が日本人向けにしたイケニエイベントだったんだ。

給与差押え[編集]

大連駅の一夜か10ヶ月ほど経った大正9年1920年)10月10日、定太郎は東京市道路局長に就任した。「新道路局長が初月給の差押え東京朝日10月20日付)」の見出しが新聞に載った。
記事は定太郎が蓮華鉱山合資会社社長のときの後腐れ話であった。「僕がある鉱山会社を起こしたとき、上田、大原の両人から多量の針金仕入れた残額で、僕が責任者として裏書きしたものだが、会社が悲境に陥り債務を果し得なかったのだ」という定太郎の弁明のコメントが出ている。立憲政友会攻撃に新聞報道が傾く中、同年12月、定太郎は東京市道路局長を辞任し、代わりに反政友会の後藤新平が就任する[7]

詐欺事件嫌疑[編集]

定太郎の名前が久しぶりに新聞紙面を飾った。昭和9年(1934年)5月9日付の新聞に、定太郎が、明治天皇の親筆と偽った書を売り捌く詐欺団首魁として逮捕されていたことが、顔写真入りで載った。「平岡元樺太長官 偽の御宸筆(ごしんぴつ)で詐欺―畏れ多くも由来書を作り大胆な罪を計画」(東京朝日昭和9年5月9日付)というもので、大きな見出しで記事は7段にもわたっていた。容疑内容は詐欺であり、定太郎とその一味が、絹地に“国家”と書かれた明治大帝の直筆を高額で売り捌こうとした。しかも御宸筆は偽物で、ある職工が「亀戸天神の縁日」で三十五銭で買ったものだった。転々として骨董屋で五十銭で売られており、これを購入して本物と偽ってひと儲けたくらんだのである。しかし2ヶ月後、怪しげな連中にただ担がれただけ、と判断され不起訴となった[7]

原敬暗殺予見[編集]

大正10年(1921年)11月4日、定太郎の後ろ盾であった原敬が暗殺される(原敬暗殺事件)。事件の8ヶ月ほど前、原敬は日記に、「夜岡崎邦輔、平岡定太郎各別に来訪。余を暗殺するの企ある事を内聞せりとて、余の注意を求め来る」とある[7]

https://ja.wikipedia.org/wiki/平岡定太郎