多賀城の名前は多娥丸からきてんだ。ほんで拠点が多賀城のとこ。


今日行って見てきた。間違いない。ほんでな。よーく考えてみたらわかる。

多賀城の跡になってるが、作ったのは桓武平氏の手下 大野東人とされている。

ほんでもともとは、宮城野区の郡山あたりにあったとされている。

それは合致してると思う。

雷神古墳が400年から500年 そうするとそこから北の海と内陸の中間地点が

郡山として軸をみる。

ただし、郡山は平地すぎて 賊徒が出てくるようになってくると危なくなった。

ほんで、平地に構えてた関所的役目の初代多賀砦を 多賀城市の山に移動した。

あの多賀城跡見たらわかるけど、当時、山を整備してあのなだらかな面

作り出したんだ。ちょっとデカい古墳にさえ見える形状。

ほんであたしがそう思った根拠が、あそこの高台ならば、その先に塩釜がある。

塩釜を見据えた砦にしたんだ 多賀城市の城。

ほんとに近い 多賀城跡から塩釜神社まで。

ほんで塩釜神社百済勢力の入ってきた場所よ。そもそもは山と海の入り江だけ

だったんだろうと推測 塩釜な。

だから 海沿いなのに八幡ないだろ 塩釜。そんかわり 志波姫なんたらの

鳥居だろ。

海に関しては八幡か 海神ワタツミなんだよ うちの系統ならば。

そうでないのは あたしの系統と違うって事。

塩釜神社百済の入り江にされたんだな 今日わかったわ。

多賀城跡は 小高い山になってる あれは 当時 山を整備して見下ろせるように

作ったもの。

その小高い山にたいしたものは建ててはいなかっただろうから、そこに大野が

城建てたんだろ。

大野が作ったというのも 半ば半信半疑だけどな。

ほんで、あの多賀城跡見ると 百済勢力 つまり当時の北朝勢力に攻められて

北畠は福島県の霊山に移動した。

その霊山なんて、崖っぷちもあり 攻撃を考えた土地だぞ。

法面に石もたいして積んでいない。自然環境で当時一番 攻めにくい立地で

あそこが良かったんだ。結局攻められて 霊山も出ることになるけど。

そのいちいち攻めてくんのが 人食い桓武だって事。

人食いカルトと戦争してきてんのに、人食いを支援する連中 馬鹿か??と言いたい。

人食い侵食精神だから 誰のものも欲しがる 誰のものも飲み込む

誰のものも自分のものにして利用する

そういう連中だ 北朝って。その卑しさゆえに人命をたくさん台無しにしても

あの連中は金をかき集めた。だから金をつかんでる。

その人命を返せと言う子孫さえ あの連中はみんな潰す。

だからあたしも同じことをする。

侵食されてどんだけ嫌な思いをするのか 自分らは今までいい子ちゃんできたから

陰口ぐらいはたたかれても、妬みね♪なんて 余裕ぶっこいてた部落あがりだから。

その勘違い破産血統のやる事になびいて、なびいた連中が今度あちこちを潰す

不良債権を垂れ流し、チェーンメールみたいにまわして、それを百済の敵となるとこ

にまわし、徹底的に痛めつける。

それを平気でやってきたから、徹底的にあの百済連中には不良債権つかませて

発狂させてやらないといけない。

ましてや、国費をうちから出させて借用書をふんだくった相馬一族なんぞ

根絶やしにしてやるとあたしは何度も書いている。

国費踏み倒しして、その後 第一次世界大戦 第二次世界大戦と突入している。

その中枢が百済という事もはっきりしている。

人の肉むさぶり食い生きてきた血筋は、本来ならば中国から殺されかけた血なのさ。

唐に戦争ふっかけて、船まで沈められたのが百済なのだから。

そんなやってどんどん百済移民入れさせてたのは、宮内庁で捏造してるが

天皇扱いの天智だ 中大兄皇子

多娥丸が人食いでも信仰してくれてたのか 山口は??

人食いじゃねーけどな。有名な海賊だったらしいから 相当 穀物や魚介類を

食した文明もちだ。

あと 多娥丸が人食いだって言ってるの 三重だけだ。

多賀城の多賀って 多娥 東北の王からきてるんだ 名前。

ほんで あたしのじいさんはじめ 中国のまともな人と付き合いあった。

食料が乏しくなっても 人を食うような事を嫌っていた あるいはしていなかった。

魏の曹操には人肉食った話 ないんでしょ。

つうか 魏って もとは周 そのもとは夏 そのもとは尭なんだよ。

食品を包み加工する文明持ってた民族だ 言っちゃなんだが。

あと 多賀に山王遺跡ってあんのな。今日 わかったけど。


これで弥生時代

つうことで、多娥丸は弥生時代穀物文明の上で生きてたわけ。

キンペーのとこで この文化財と中国の文化財 比較するといい。

生活文明品の類似品が出てくるかもしんないから。

あと八幡ってあたしの系統の血筋なのな。みんな知ってると思うけど。

八幡って三韓征伐の血統なの。これって、殷ではないって事を指す。

ほんで八幡はあたしの系統だけど、山王っていうのは 

これまたあたしの系統なのさ。

八幡って単語と山王って単語が出てくる段階でうちの先祖たちもそこをよーく

知ってるはずだ。

多賀城にいれればよかったのに、攻めてきたのはあろうことか 今の天皇家の血筋

百済たちだからな。

今の多賀城が城をなくしたように、あたしの家族もそういう目にあわされて

きたんだ。だから、今度こそ許さねぇ

あった大きさの城を建てたいのではなく、今あるものを壊されようとしてるから。

多娥丸が弥生文明持ってたこと 多賀城の山王遺跡で証明できた。

そこ うちの縁のとこ。

ほんで、不思議なことに百済が城建てたんならば、城を再建すると思わない??

あの連中のことだし。

それを再建しないできたってことは、そこの城は 大野が作ったとした嘘だと

思ってる。

大野が桓武サイドだから、大野の売名したいならアイツらは城を建てるだろう。

逆に青葉城をああいうふうに再建してるってことは、桓武青葉城を売名に利用

したんだな。

つうことで、いかに八幡と百済が大昔から戦争してきたか

いかに百済が国費とみなされる金品収集をゴリ押ししてきたか

よーくわかるでしょう。

塩釜神社は もう 行かなくてもいいな。あたしと戦争した相手 まつってるし。

すんげー金かけてるみたいだから。

あと天皇の紋 やたらと入れてるみたいだけど、

あの紋は桓武が使う紋じゃないから。ほとんどの天皇は乗っ取りできてるが

、あの連中が使うべき菊花紋章は三十二弁菊だ。



ja.wikipedia.org/wiki/ - キャッシュ
鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用した。その後、 後深草天皇亀山天皇後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、こと に十六八重表菊が皇室の紋として定着した(「十六弁菊は南朝の紋で、三十二弁菊(十...