尾張も菅公の血があんのか。ペルシア平家と八幡のあたしサイドは一緒だからな。
そうか・・・尾張って菅公のじいちゃん居たとこじゃん。
菅原清公
歴史[編集]
古代から平安時代まで[編集]
7世紀に律令制が敷かれると尾張国造の領域が令制国の尾張国の範囲となり、防人の通行路にもなった。7世紀中葉には、国と評による地方行政区画が施行されていたが、本格的な地方行政制度は8世紀の初頭に地域を国・郡・里の3段階に区分し、『延喜式』民部式によると尾張は、海部・中嶋・葉栗・丹羽・春部(かすがべ)・山田・愛智・知多の八郡であった。
南北朝時代から室町時代まで[編集]
1400年頃,斯波義重(義教)が尾張守護に着任する。斯波義重の父斯波義将は越前(福井県)・越中(富山県)の守護であり、父から越前守護職を譲られる。その後、尾張(愛知県)、遠江(静岡県)の守護となる。越前時代からの被官である甲斐氏・織田氏・二宮氏らが尾張に送りこまれ,荘園・公領に給人として配置された。
戦国時代から安土桃山時代まで[編集]
特に戦国時代になると尾張国は、織田信長(現在の名古屋市出身[4]、後年、清洲城を本拠とする)と豊臣秀吉(現在の名古屋市中村区出身)といった大物武将を出し、織田信長や豊臣秀吉の領土に入った。これ以外にも尾張国出身の武将としては、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家、池田輝政、山内一豊、加藤清正、福島正則、蜂須賀正勝、佐久間信盛、佐久間盛政、佐々成政、堀尾吉晴、浅野長政などが有名である。
徳川家康の出身地である隣国三河出身の武将の多くが江戸時代に入って大名になったのと同様、尾張出身の武将たちもその多くが金沢・岡山・広島・徳島・高知などをはじめとして、全国各地に大名として散らばっていった。