この流れでいくと平安時代は将門サイドだったけど、鎌倉以降は対将門・対徳川って感じだな。
あとさいさん提示している通り、将門はあたしサイド。
徳川家康もあたしサイド。大まかにいうと八幡。
それと戦している人達は桓武平氏と源氏の反逆者。
おおまかに言うと、百済。
平安時代[編集]
- 承平8年(938年)、平将門に追われて東山道を京にむけて関東を脱出しようとした平貞盛が、2月29日に追撃してきた将門の軍勢100騎と信濃国分寺付近で戦った記録が残されている。このとき貞盛は、信濃国海野古城を拠点とする信濃御牧の牧監(管理者)滋野氏の下に立ち寄っている。旧知の間柄であったとも伝わるが、正確な関係は不明である。滋野氏のみならず、他田真樹ら信濃国衙の関係者達も貞盛に加勢したが将門軍に破れたとされる。この戦闘によって国分寺は焼かれたものと考えられている。
鎌倉時代[編集]
- 鎌倉幕府政所初代別当大江広元の孫大江佐房が承久の乱の後上田に所領を得たという。その子らが上田を名乗るが、弘安8年(1285年)霜月騒動で没落した。
- 13世紀に鎌倉幕府の執権北条氏の一族北条氏 (塩田流)が信濃守護として三代60年間にわたって治めた。守護館は塩田城。
戦国時代[編集]
- 天正11年(1583年)4月、甲斐武田氏の家臣・真田昌幸は、小泉氏の居城である尼ヶ淵城を改修して上田城とし、翌年城の完成とともに小県郡伊勢山の戸石城からこの城に移ったという。一方で、上田城は越後国の上杉氏に対して徳川家康により築城された城で、後に家康から昌幸に下賜された城であるとする説もある。築城後、真田昌幸は、真田氏に縁故のある海野郷(現在の東御市の一部)と原郷(市内の(旧)真田町の一部に本原の地名がみられる)の住民を招いて城下町を形成するに至る。
- 天正13年(1585年)8月 - 徳川家康がさしむけた真田討伐の大軍をむかえたが、真田昌幸は少ない兵と上田城や周辺の地理的条件を利用して、遂にこれを撃退せしめた。第一次上田合戦
- 慶長5年(1600年) - 関ヶ原の戦いのとき、真田昌幸とその子真田信繁(幸村)は、徳川秀忠が率いて押し寄せた大軍を完全に阻止し、そのため秀忠が関ヶ原の戦期を失うに至ったことは、史上名高いところである。第二次上田合戦
- 関ヶ原の戦い後、真田昌幸は在城18年にして、次男信繁(幸村)とともに紀州高野山に幽閉されたため、上田城は一時空城となったが、依田肥前守信守が守衛の任に当たる。その後、徳川家康の女婿となっていた昌幸の長男真田信之が、徳川方に属し将軍秀忠のもとで上田城攻撃を行う忠誠を尽くしたことが評価され、沼田藩とともに上田藩の藩主にもなり、父の地盤を受け継いだ。