伏見宮←北朝
うちの人間が幕府から借りてやった金を使いこんでおきながら、借用書を強奪するような相馬藩の人間は、みんな北朝になびいて嫌がらせしてますんで、きちんとケジメつけてください。
許しません。
まして軍隊に皇民化教育施し軍隊リンチかけて餓死させた責任ありますからね。
これも許しません。
ここに何で朝堂院大覚が出てくのか!
d.hatena.ne.jp/kamayan/20060205/1139078080 - キャッシュ
伏見宮←北朝
家祖 種別 出身地 主な根拠地 著名な人物 支流、分家栄仁親王 (北朝第3代崇光天皇の第一皇子) |
皇族(世襲親王家) |
京都 |
山城国伏見御領 |
貞成親王 貞敬親王 邦家親王 貞愛親王 博恭王 |
梨本宮 山階宮 久邇宮 華頂宮 小松宮 北白川宮 東伏見宮 賀陽宮 朝香宮 竹田宮 東久邇宮 閑院宮 |
伏見宮(ふしみのみや)は、かつてあった日本の宮家の一つ。宮家御紋は伏見宮十四裏菊。世襲親王家の4家の中では最も歴史が古く、持明院統の嫡流で北朝の崇光天皇の第一皇子栄仁親王を初代とする。宮号はその所領だった伏見御領に因む。
第3代貞成親王の第一王子彦仁王(後花園天皇)は嗣子のない称光天皇の猶子となって皇統を継ぎ、この系統が今日の皇室に連なっている。一方、貞成親王の第二王子貞常親王の系統は以後代々と伏見宮を継承し、明治になるとそこから数多くの連枝が新宮家を創設した。
昭和22年(1947年)昭和天皇の弟である直宮3家を除いたすべての傍系宮家が皇籍を離脱することになったことにともない、第26代博明王が臣籍に下って伏見博明を名乗った。このとき皇籍離脱した11宮家はいずれもこの伏見宮の系統である。
栄仁親王王子の3代貞成親王は、自ら伏見宮と称していた。貞成親王の第一王子は後花園天皇として即位し、第二王子の貞常親王が4代目となったが、貞常親王は兄の後花園天皇から永世「伏見殿」と称することを勅許され、以後、代々「伏見宮」と名乗るようになった。
幕末から明治維新の時の19代貞敬親王および20代・23代邦家親王は子女に恵まれ、貞敬親王からは梨本宮、邦家親王からは山階宮・久邇宮・華頂宮・小松宮・北白川宮・東伏見宮がそれぞれ創設されたほか、幕末に断絶していた閑院宮をも継承して再興している。また久邇宮からはさらに賀陽宮・東久邇宮・朝香宮が創設された。維新後に創設された宮家はそのすべてが伏見宮家の系統である。
貞愛親王の跡を継いだのが、25代博恭王である。博恭王は当初、華頂宮家を継承していたが、伏見宮家の継嗣とされていた弟の邦芳王が病弱のため、伏見宮に復帰して継嗣となった。元帥・海軍大将・軍令部総長として昭和海軍の実力者であった。博恭王は、1946年(昭和21年)8月16日に薨去し、博恭王の第一王子の博義王は父よりも早く薨去していたので、博義王の第一王子である博明王が26代となった。
伏見宮家邸宅[編集]
江戸時代の伏見宮家は京都御所周辺に2ヶ所の邸宅を有しており、その時の当主の都合で、どちらかを本邸として使用していた。御所東部と御所北部に、その邸宅は存在した。御所北部の邸宅は現在、同志社女子大学の敷地の一部となっている。周囲には桂宮家と五摂家の二条家と近衛家の邸宅があった。