何度見ても 命の恩人にしか見えない斉藤実盛
比叡山の僧兵150人ほどをやり過ごしたとは たいしたもんだ。
本体はあたしが持っている。因果なものよ。
源満仲から出た子供のルートで
百済サイドにまわった連中が、八幡サイドを攻撃してくるんだから同族争いに
なるわけで、それを高みの見物してた
百済の朝廷ならびに
天皇とされてた連中は
その八幡であるあたしのとこが
天台宗にあった仏さんを持ってるんだからな。
なんという因果よ。
斎藤実盛は、
百済に振り回されて 結局 事故のように戦で義仲の手で死ぬも
それが理由で、やっと開放された武将よ。
神社がなくなってもどうでもいい。価値がないから、兵庫の神社。
建てた連中があたしサイドではないから。
それを「祟らないで」って祈ってきた連中に 何千年分の怨霊飛んでるから。
こんな
百済の移民に金を搾取されて、コマのように動かされ殺し合いしてるなんて
これほど腹立つ話はないよ。
斉藤氏 あたしが弔ってやろう。八幡の名武将として。
何度見ても 涙が出てくる。それと同時に復讐しかわいてこない。
カルトと戦争してきてんのは織田も豊臣もそう。
比叡山は焼かれて然るべき事をやってきたんだ。カルトなのに、うちらが
国賊
のように作りこんできたこのやり方な・・・・。
許さないよ。
現在
多田神社。970年(天禄1)摂津守
源満仲の創建で,その子息天台僧源賢を開山と する。本尊は丈六釈迦仏で願主は満仲,そのほか
文殊(もんじゆ)菩薩は頼光,普賢(ふ げん)菩薩は頼親(
大和源氏の祖),四天王は頼信(
河内源氏の祖)と,それぞれ満仲の ...
plaza.rakuten.co.jp/tougenkyonosato/diary/201511200007/ -
キャッシュ
武蔵国は、
相模国を本拠とする
源義朝と、
上野国に進出してきたその弟・
義賢という両勢力の緩衝地帯であった。実盛は初め義朝に従っていたが、やがて
地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・
源義平は、
久寿2年(
1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(
大蔵合戦)。
実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を
畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である
信濃国の
中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・
木曾義仲である。
保元の乱、
平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後
平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。
そのため、
治承4年(
1180年)に義朝の子・
源頼朝が挙兵しても
平氏方にとどまり、
平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。
平氏軍は
富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。
寿永2年(1183年)、再び維盛らと
木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、
加賀国の
篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・
手塚光盛によって討ち取られた。
この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため
首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを
樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。
室町時代前期の
応永21年(1414年)3月、
加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の
石川県加賀市潮津町に所在)で七日七夜の別時
念仏を催した4日目のこと、滞在布教中の
時宗の
遊行14世太空のもとに、白髪の老人が現れ、
十念を受けて諸人群集のなかに姿を消したという。
これが
源平合戦時に当地で討たれた斉藤
別当実盛の亡霊との風聞がたったため、太空は結縁して
卒塔婆を立て、その霊魂をなぐさめたという。この話は、当時京都にまで伝わっており、「事実ならば希代の事也」と、
醍醐寺座主の
満済は、その日記『
満済准后(まんさいじゅごう)日記』に書き留めている。そしてこの話は、おそらく
時宗関係者を通じて
世阿弥のもとにもたらされ、
謡曲『実盛』として作品化されている。以来、
遊行上人による実盛の供養が慣例化し、実盛の兜を所蔵する
石川県小松市多太神社では、上人の代替わりごとに、
回向が行われて現代に至っている。
松尾芭蕉も、『奥の細道』の途上で小松を訪れて実盛を偲び、今も多太神社に現存する実盛の甲を見て 「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と句を詠んでいる。