捏造ごっこに国費いくらかけてんのアンタ達

2016-04-02 18:16
◎両陛下、橿考研を視察=奈良


天皇、皇后両陛下は2日午後、「神武天皇二千六百年式年祭の儀」への出席などのため奈良県入りし、橿原市の県立橿原考古学研究所を視察された。 同研究所は1938年設立。県教育委員会に属し、県内の埋蔵文化財...-時事通信-3時間前


んだから奈良に吉野朝廷あっても奈良自体を捏造組として
しまうんだけどさ。

責任どうとるのか 絶対にやられた事 忘れないからさ。

うちの親族の遺品 正統南朝のものだから。

アンタたちのせいで大勢死んだ

毎日毎年 どんだけ捏造に国費をぶっこんでんのか

その面 殴ってやりたい

奈良県堂々とこういう事をしたのは あたし根に持つから。

奈良県立橿原考古学研究所(ならけんりつかしはらこうこがくけんきゅうしょ)は、奈良県 橿原市畝傍町に設置された県立の埋蔵文化財調査研究機関。奈良県に属する機関で ある。現在まで存続している公的な埋蔵文化財研究機関としては最も古い歴史を持つ。

津州

←滋賀の近江 これで奈良の隋と組んだんだな

津州(しんしゅう)は中華人民共和国湖北省にかつて設置された州。現在の宜都市一帯に相当する。
南北朝時代北周により設置された江州を前身とする。598年開皇8年)、隋朝により津州と改称された。605年大業元年)に廃止され、管轄権は亭州に統合された。

北周から隋になったその本体が百済

北周から隋へ[編集]

武帝崩御により、皇太子の宇文贇(宣帝)が新たに即位した[10]。しかし宣帝は父帝に遠く及ばぬ暗愚の息子で、武帝が皇太子時代に心配して厳しい躾を行なったほどであった[10]武帝の心配したとおり、即位した宣帝は「(武帝が)死することおそし」と罵り、さらに後宮を回って気に入った女を見つけると淫欲のままに行動した[10]。さらに即位後、武帝を支えていた一族群臣を自らにした躾に賛成していたとして粛清し、かえって貴重な人材を失う結果となった[12]
宣帝の奇行は留まることを知らず、即位の翌年である579年には皇太子の宇文闡(静帝)に譲位して、自らは天元皇帝と称した[12]。そして身分に関係なく、たとえ皇后であっても気に入らなければ天杖と称した杖で120回から240回にわたる叩きを喰らわせた[12]。こうして北周帝室は人心を失いだし、政治の実権は外戚の随国公楊堅が掌握した。
580年、宣帝は22歳で崩御[12]、残されたのは8歳の静帝だけとなった。この幼帝の下で楊堅は兵権を掌握し、さらに隋王の称号を与えられた[13]581年、楊堅静帝より禅譲を受けてを建て、北周は滅亡した[13]。やがて北周の皇族の宇文氏は、静帝を初めとして多くが、楊堅によって皆殺しにされて途絶えた。



そうか

奈良時代奈良県とはこの人から名前をとったんだな。

楊 堅(よう けん、541年7月21日 - 604年8月13日)は、中国の初代皇帝(在位:581年3月4日 - 604年8月13日)。小名は那羅延。文帝廟号は高祖。第2代皇帝煬帝の父。


そうすると時代は隋じゃないか。
王朝 在位期間 都城 姓・諱 諡号 廟号 生年 没年 父 母 皇后 陵墓 年号
581年3月4日 - 604年8月13日
大興城(長安
楊堅
文皇帝
高祖
541年7月21日
604年8月13日
楊忠
呂氏
独孤皇后
太陵
開皇 : 581年 - 600年
仁寿 : 601年 - 604年

出生[編集]

楊堅は、北周大将軍楊忠呂氏の間に生まれた。楊氏漢民族後漢楊震の末裔を称し、弘農郡華陰県(現在の陝西省渭南市)を本貫とした。しかし、漢族出身ではなく北方異民族の普六茹氏の子孫[1]という説もある。
隋書』の「本紀」には、楊堅の誕生に関して以下の話を載せている。楊堅が生まれたのは、541年大統7年)6月13日、生まれた場所は、馮翊陝西省大茘県)の般若寺という仏寺であり、幼名は金剛力士をあらわす那羅延であったという。この時代熱心な仏教信者でなくとも、名前に仏教語を使用するのは一般的なことではあったが、楊堅の場合は乳母役を引き受けて養育したのは智仙という尼僧であったという。このような事から、楊堅は幼少の頃から仏教に親しみを持っていたものと考えられる。
また、初の護法僧法琳の『弁正論』によると、その般若寺は北周武帝廃仏によって廃毀されたが、楊堅は即位後の585年に出生地を懐かしみ、父母への追善供養の意味も込めて、その場所に後の日本の国分寺に相当する大興国寺を建立し、華麗な荘厳を施された堂塔伽藍を建立したと記している。


このような事態にも関わらず、煬帝は次第に酒と宴会に溺れて国政を省みなくなり、遂には諫言や提言する臣下に対して殺戮で臨むようになってまったく民心を失った[22]。だが、煬帝に従って江都に赴いていた隋軍は多くが北方の出身者であり[22]、彼らはそんな煬帝を見限り遂に重臣宇文化及を擁立して618年に謀反を起こした[23]。この期に及んで酒色に溺れていた煬帝だが、直属の群臣にまで叛かれた事で遂に観念し、縊り殺された[23]
江都にいた隋軍は宇文化及の主導の下に秦王楊浩を擁立し、北へと帰還することを望んだが、途中で竇建徳の軍に大敗して消滅した。煬帝の死を聞いた李淵は、楊侑から禅譲を受けてを建てる。洛陽にいた越王楊侗は、煬帝の死を受けて諸臣に推戴され皇帝となったが(恭帝侗)、619年に王世充に簒奪され、隋は完全に滅びた。なお、煬帝の「」の文字は、「天に逆らい、民を虐げる」という意味を持ち李淵によって贈られたである。
なお、煬帝の孫のひとりである楊政道(斉王楊暕の遺腹の子)のみ、唯一生き延びた。彼は突厥処羅可汗の庇護を受けたが、630年、突厥が滅亡すると、楊政道は唐に帰順して、官職を賜った。



そしたら今度中国では、長い事、日本の中枢はココ奈良と京都って思わされてきたのさ。ところがどっこい、日本には古代夏朝から開拓民が入ってるの。

日本史大間違いだから。

その夏代からの魏、そして倭、そして多娥とか多賀、おたかさんっつうのはあたしの系統。あたしの系統は斉でもなきゃ漢でもないってこと。

あとこの愚か者煬帝天に逆らい、民を虐げる」

あとこの愚か者桓公「自分が天子であると宣言する行動」

同じ。そしてどちらも「百済」 馬韓・秦韓・百済は一緒