百済 気色悪い 何のつもりで陸奥に来てんのか なんで貴族に金があんのか カツアゲしてきてっからさ。あたしも貴族の血だからカツアゲしようか??


あとさ。697年って白江村の戦いの後だろ。

他所からきた盗賊なんだよ 立場は。百済は盗賊の立場なの。

それを東北征伐だって??

馬鹿語ってんじゃないよ 能無し皇族の分際で。

あと697年以前 つまり弥生・縄文で文明たってんの 言っちゃなんだが。

それを「オレ達はこの国の王で都の人間だ!」でカツアゲしただけ。

カツアゲだよ。

対価は払ったか??

都の人間だからって言って対価払ってねぇーだろ

まるで芸能人と一緒だな やることが。

一般大衆からは手の届かない人間だ 都は=今でいう芸能人

くれというんじゃ やるしかねえーなって

一般人は芸能人にも ホイホイくれてやる

あれと一緒。

チャラチャラしてるだけで、あっタダなの??=一般人ちょろい~

てな感じのカツアゲ。

百済王 敬福(くだらのこにきし の きょうふく、文武天皇元年(697年) - 天平神護2年6月28日766年8月8日))は、奈良時代貴族摂津亮百済王郎虞の三男。官位従三位刑部卿
749年天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年)、陸奥守在任時に陸奥国小田郡から黄金が発見されたことで知られる。また橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱の鎮圧にも功績があった。

生涯[編集]

697年(文武天皇元年)、日本に亡命した百済王族の子孫である百済王郎虞の三男として生まれる。なお、『公卿補任』によると敬福は百済王南典の弟との記述があるが、南典は朗虞の兄弟つまり敬福の叔父とする系図もある[1]
738年天平10年)、陸奥介に任ぜられる。翌739年天平11年)に正六位上から従五位下に昇叙、743年天平15年)に陸奥守に昇進した。
当時、聖武天皇東大寺大仏の建立を進めていたが、巨大な仏像に塗金するための黄金が不足し、遣唐使を派遣して調達することも検討されていた。全国にも黄金探索の指令が出されていたが、これまで日本では黄金を産出したことがなかった。746年天平18年)4月、上総守に転任するが、9月には従五位上へと加叙を受けて陸奥守に再任されている。奇妙な人事だが、あるいはこの時に黄金探索の手がかりがあった可能性もある。749年天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年)になって、敬福から平城京に対して陸奥国で産出した黄金900両が貢上された。聖武天皇は狂喜し、東大寺大仏殿行幸して仏前に詔を捧げ、全国の神社に幣帛を奉じ、大赦を行っている。これにより敬福は従三位へ七階級特進し、宮内卿河内守に任命され、産金に貢献した地方官人らもすべて位階が進められた。年号は天平から天平感宝と改められ、さらに天平勝宝と改められている。歌人大伴家持は次のように黄金産出を寿ぐ。

黄金山神社(こがねやまじんじゃ)は宮城県遠田郡涌谷町黄金迫(こがねはざま)に鎮座 する神社。日本で初めて金を産出した場所である。延喜式神名帳の「陸奥国小田黄金山神社」に比定される。旧社格は県社。