阿蘇氏 因果関係ここにあるな・・・現在のウィキ情報
阿蘇氏 因果関係ここにあるな・・・
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これが正しいという見方はできない。
一応 河上彦斎の仇討ちとな 急に売名で出てきた連中の背後 細川一派への制裁
あとこのウィキどうりでいけば、阿蘇氏
これはいくら泣いても 取り返しつかないぞ。
北畠顕家
建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。
生涯[編集]
幼少期[編集]
元応3年(1321年)1月、顕家は3歳で叙爵されたのち、さまざまな官職を歴任し、元弘2年/正慶元年(1332年)12歳までに従三位参議・左近衛中将となった[4]。14歳で参議はほかに先例がなく、中原師守の日記『師守記』では「幼年人、参議に任ずる例」として、康元2年(1257年)11月に15歳で参議となった四条隆顕ともに記されている。
元弘元年(1331)3月、 後醍醐天皇が西園寺公宗の北山第に行幸した際、顕家もこれに供し、「陵王」を舞った[4]。『増鏡』では、このとき帝も笛を吹き、顕家が舞い終えたのち、前関白である二条道平が自身の紅梅の上着、二藍の衣を褒美として与えたという[5]。
このように、顕家は史上最年少で参議に任じられるなど先例のない昇進を示し、父親房同様に順調に出世をしていった[6]。これは顕家の才覚が幼少期から人々に認められていたからこそであろうと考えられる。
陸奥への下向と統治[編集]
10月10日正三位に叙任され[10]、10月20日後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、父とともに陸奥へ下向した[11][4]。11月29日、陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市でに到着し、東北地方の統治を始める[12][4]。
建武2年(1335年)11月12日、鎮守府将軍[15]に任ぜられる[16]。それに先んじて、7月には東国では北条氏残党による中先代の乱が勃発していたが、8月までに足利尊氏が乱を平定していた[9][4]。同月30日、尊氏は斯波家長を奥州管領とした[17] が、これは明らかに顕家を牽制するものであった[4]。
京への進撃と足利尊氏との戦い[編集]
翌建武3年(1336年)1月2日、顕家軍は鎌倉を攻め、足利義詮・桃井直常の軍勢を破り、鎌倉を占領した[4]。翌日、佐竹貞義が顕家の追撃に向かったため、顕家は鎌倉を出て進撃を開始した。その後、1月6日には遠江に到着し、12日に近江愛知川に到着した[4]。
なお、顕家の軍勢はこのとき、1日に平均40km弱も移動して600kmに及ぶ長距離を僅か半月で駆けており、渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している。これは後の羽柴秀吉の中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍である。
1月16日、顕家と義貞の連合軍は園城寺を攻め、足利方の軍勢を破り、軍を率いていた細川定禅は逃げた。さらには高師直と関山で戦闘した[20][4]。その後も戦闘は続いたが、1月27日から30日の戦いで義貞・正成とともに尊氏を破り、京から退去させることに成功する[4]。
2月4日、顕家は右衛門督検非違使別当に任じられ、さらには翌5日には「大将軍」の号を賜わり、「鎮守府大将軍」となった[21][9][4]。同日に顕家は義貞とともに尊氏・直義を追討するため京都を出撃した[4]。
2月10日から11日にかけて再度の入京を目指す尊氏を摂津国豊島河原で破り、尊氏は九州へと落ち延びた(豊島河原合戦)。その後、顕家は義貞とともに足利軍を追撃し、各地を転戦したのち、2月14日に京へと凱旋した[4]。
陸奥への帰還[編集]
3月2日、顕家は権中納言に任官し[22]、3月20日あるいは24日に足利方を掃討するため再び奥州へ戻る[4]。その帰途、相模で足利方の斯波家長の妨害を受けるが、4月にはこれを破っている[23][4]。
5月、顕家は相馬氏を破り、奥州へと帰還した[24][4]。この間、顕家と共闘した義貞・正成が九州から北上した尊氏に湊川で敗れ(湊川の戦い)、正成は命を落とし、義貞は後醍醐帝らとともに比叡山へと逃げた。