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8月11日、顕家は義良親王を奉じて霊山城を発ち、上洛するために再び南下した[28][9][4]。『太平記』によると、このときの軍勢は奥州54郡から招集され、その兵数は10万余騎であったという。
8月19日、顕家軍は白河関を越えて下野に入り、12月8日には足利方の小山城を陥落させ、小山朝郷を捕えた[9][4]。顕家は足利方の大軍を、12月13日に利根川で(利根川の戦い)、12月16日に安保原でそれぞれ破った(安保原の戦い[29][4]
12月23日、顕家率いる軍勢は鎌倉を攻撃、翌24日までにこれを攻略した[30][4][9]。この際、斯波家長は討ち取られ、足利義詮上杉憲顕桃井直常高重茂らは鎌倉を捨てて房総方面に脱出した[31][9]。鎌倉を陥落させた顕家軍には新田義貞の息子新田義興、さらには北条時行が合流するなど勝ちに乗じて膨れ上がった。『太平記』によると、関東一円から顕家のもとに軍事が馳せ参じ、その数は50万に上ったというが、これは誇張であると考えられる。いずれにせよ、顕家の軍勢は大軍であったことには変わりなく、顕家は勢いに乗じて鎌倉から西上を開始する。
太平記』によると、顕家の軍は徹底的な略奪を行いながら行軍し、顕家軍が通った後には人家どころか草木も残らなかったという。同記では、これらの行動を恥知らずの夷の軍勢であるから、と批判的に説明しているが、霊山包囲などの苦境からの出撃により物資が絶対的に不足していたという事情も伺われる。

新田義貞との連携失敗[編集]

延元3年/暦応元年(1338年) 1月2日に顕家は鎌倉を出発し[32][9]、1月12日に遠江国橋本に[33]、1月21日に尾張国に到着し、翌日に黒田宿へと入った[4]
対する足利方は守護らをかき集めた軍勢を組織し対抗したが、1月28日までに顕家はこれを美濃国青野原の戦い(現、岐阜県大垣市)で徹底的に打ち破る[34][4]。一時は総大将の土岐頼遠が行方不明になるほどの大損害を敵に与えたが、この戦いによる兵力の減少や疲弊により京攻略を諦め、2月には伊勢に後退した[35][4]
太平記』は、顕家が伊勢ではなく越前に向かい義貞と合流すれば勝機はあった、越前に合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄を取られてしまうことを嫌がったからだと記述している[36]佐藤進一は、顕家とその父親房ともに貴族意識が強く、武士に否定的であったため義貞と合流することを嫌ったからだ、としている[37]。また、この時北畠軍の中にいた北条時行にとって義貞は一族の仇であり、彼が合流に強く反対したため合流が果たせなかったと解釈した[38]
佐藤進一の見解について、奥富敬之は北畠軍には義貞の次男義興もいたことから、時行に義貞への敵意、怨嗟はなく、時行が反対したとは考えられないと反論している。また『太平記』の記述については、顕家は義貞に手柄を取られることを嫌がって進軍の段取りを変えるような人物ではなく、さらに顕家は義貞よりも官職が高いことから、手柄を取られるなどとそもそも考えるはずがないとして、明らかに誤りであると指摘している[39]
義貞と顕家に対立があったかどうかについては、史料からは明確に読み取れない[40]。また、越前へ向かう行程は難路であり、峰岸純夫は、その行程の困難さから越前に向かう選択肢は考えられないと指摘する[41]。奥富は、佐藤和彦の見解を「正鵠にかなり迫っている」と評した上で、顕家は、わざと寄り道をして、足利の注意を引き付けると同時に、義貞が挙兵する時間稼ぎをしたのではないかという見解を示している[42]
一方、峰岸はむしろ合流を拒んだのは義貞の方で、義貞と北畠親子の間にはやはり何らかの確執があり、両者は不信関係にあったのではないかと推測している[43]。さらには、義貞がいる越前は未だ安定しておらず、義貞は上洛よりも越前の制圧、平定を重視していたとも考えられる[44]。この当時、足利側の攻勢は激しく、連帯感も取れていた。そのため、義貞も顕家も、目の前の敵の相手をするのが精一杯であり、互いに共同戦線を展開できるほどの余裕は残されていなかったとも指摘される[45]佐藤和彦は、北畠親房は伊勢に勢力を持っており、勝利したとはい疲弊していた顕家は伊勢にある北畠氏と関連の深い諸豪族を頼るため伊勢に向かったと推測した[46]

畿内における戦い[編集]

足利尊氏像( 浄土寺蔵)
2月4日、尊氏の命により、高師泰師冬細川頼春佐々木氏頼高氏らが顕家軍討伐のため京を進撃した。2月14日および16日、顕家は北朝軍と伊勢国雲出川及び櫛田川で戦ったが、決着はつかなかった[4]
2月21日、顕家は辰市及び三条口に戦って大和を占領するが、28日に般若坂の戦いで激戦の末に北朝方の桃井直常に敗れた[47][4]。そのため、顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った。
一方、河内国に退いた顕家は、伊達行朝田村輝定らとともに戦力再建を図った。顕家は摂津国天王寺に軍を集結、3月8日に天王寺の戦いで勝利した[48][4]
だが、3月13日に北朝方と再び天王寺阿倍野及び河内片野で戦い、翌14日に天王寺で敗れた。3月15日に顕家軍は渡辺の戦いで勝利したものの、翌16日に阿倍野で戦い敗れ、和泉国に転戦した[4][4]。3月21日、軍を立て直した高師直はこれを追撃し南へと向かった[4]
3月22日、顕家は南朝から正二位・権大納言に叙任されている[4]。同日、南朝は九州の阿蘇惟時に出兵を要請し、顕家の救援するように命じている[4]。だが、惟時は出兵せず、4月27日に南朝は惟時に再度出兵を命じている[4]
5月6日、奥州軍は和泉堺浦の町屋を焼き、5月8日には和泉坂本郷並びに観音寺に城槨を構え[4][4]、翌9日には奥州軍は熊取、佐野、長滝の各地に進撃し、北朝方の細川顕氏日根野盛治 ・田代基綱ら現地の北朝方勢力と交戦を続けた[4][4]
この間、5月10日 に顕家は東国経営の上奏文を草した[4]。5月15日には再び後醍醐天皇に諫奏文を上奏。これが後述の『顕家諫奏文』である[4]

最期[編集]

顕家軍は和泉で奮戦していたが、これに対して顕家討伐に向かった高師直は、5月16日天王寺から堺浦に向かって出撃した。
そして、5月22日に堺浦で両軍は激突した(石津の戦い[4][4]。顕家軍は善戦したものの連戦の疲労に加えて、北朝方についた瀬戸内海水軍の支援攻撃を受けて苦境に立たされる。そのうえ、予定していた味方の援軍到着遅延も相まって、この戦いでは劣勢に回り全軍は潰走した。
その後、顕家は共廻り等二百騎とともに石津で北朝方に包囲された。残り少ない顕家軍は決死の戦いを挑み尚も奮戦したが、顕家は落馬してしまい、ついに討ち取られた。享年21という若さだった。顕家の他、彼に随行していた名和義高南部師行らも戦死した。

死後[編集]

顕家の死によって、南朝は同年閏7月の義貞の死と相まって大打撃を受けた。その一方で、北朝方の室町幕府は中央のみならず顕家の根拠地であった奥州においても有利な戦いを進めていく事になった。
顕家の死後、6月21日に日野資朝の娘である妻は河内国歓心寺で尼となり、その菩提を弔い続けた。閏7月26日に弟の北畠顕信南朝方によって鎮守府将軍に任命され、9月に伊勢国司北畠顕能を残し、義良親王を奉じて親房らとともに陸奥へ向かった。だが、船団はその途中に暴風雨に巻き込まれ、顕信は義良親王とともに伊勢へ戻ったが、親房は常陸にたどり着き、北朝方と戦った(常陸合戦)。しかし、興国4年/康永2年(1343年)11月、親房は常陸を捨て吉野へと向かった。
一方、伊勢に戻った顕信は翌年に再び陸奥へと向かい、顕家が拠点としていた霊山城を中心に活動した。だが、正平2年/貞和3年(1347年)霊山城が落城するなど、南朝勢力は次第に逼迫していく。観応の擾乱によって起こった北朝奥州管領の対立に乗じて多賀国府を一時占拠するものの翌年には奪い回され、南朝勢力の回復には至らなかった。
嫡男である顕成は、顕家の子ということもあって南朝からは相当厚遇されたとされるが、出家して『太平記』の一部を執筆・校閲をしたとも、奥州にとどまり浪岡北畠氏の祖となった[49]とも、九州に下向して懐良親王に従軍したとも[50]され、事跡が明確でない。一方、次男である師顕の系統は時岡氏となったという。
文化14年(1817年)、松平定信が顕家の慰霊するために霊山に霊山碑を建てた。
顕家が祀られている阿倍野神社
明治維新後、顕家の父親房が著した『神皇正統記』を先駆とする皇国史観が「正統な歴史観」として確立していくと、南朝に忠誠を尽くしてきた顕家、新田義貞楠木正成らが再評価されるようになる。1868年明治元年)、米沢藩儒者中山雪堂と医師・西尾元詢が顕家らの英霊を祀る神社の創立の運動を起こし、1876年明治9年)の明治天皇の東北巡幸を機会として、陸奥国府があったことにより建武の新政にゆかりのある霊山が選定、 1880年明治13年)6月に霊山の西方山麓霊山神社が造営された。 1885年明治18年)にこれは別格官幣社に列せられ、建武中興十五社の一つとなった。
また、明治8年(1875年)に阿倍野に顕家を祀る祠が地元の人々よってに建てられた。これは明治14年1881年)11月16日に顕家と親房の二人を祭神とする別格官幣社となり、建武中興十五社の一つ阿部野神社となった。

これとは別に、江戸時代に北畠の末裔なる鈴木家次なる人物が、顕家、親房、顕信をともに伊勢多気の祠に祭り、これはのちに北畠八幡宮となった。明治14年に北畠八幡宮は村社北畠神社となり、昭和3年11月10日に別格官幣社に昇格した。こちらは顕信を主祭神とし、顕家は配祀となっている。