これが出ると武田が困るのか これ有名だぞ 元祖 風林火山

人物・逸話[編集]

顕家は凛々しい美青年であったと後世に伝わるが、これは脚色された部分が強いだろうとされる。顕家の容姿に関する当時の記録では、『舞御覧記』の元弘元年に顕家が後醍醐帝の北山第行幸に供して陵王を舞った際の記録がある。これには顕家の容姿に関して、「形もいたいけして、けなりげに見え給いに(幼くてかわいらしく、態度は堂々としている)」とある。
とはいえ、顕家は文武両道ともに優れた人物である。公家でありながらも武将として、足利尊氏といった当時の武家らと互角に渡り合えるほどの卓越した手腕と戦略眼を持ち合わせていた。また、若年ながらも奥州の結城・伊達といった諸勢力を従わせるほどの政治手腕も持ち合わせた。顕家は南朝軍総大将の新田義貞と同様に後醍醐天皇から期待された存在であった。
そして、顕家は何よりも現実を見つめていた。後醍醐帝を諌めた諫奏文『顕家諫奏文』は名文書として有名であり、建武の親政における天皇の政治の矛盾、一部側近らの横暴を厳しく批判していた。
また、戦国時代の大名武田信玄よりも先に「風林火山」の旗印を用いたとされる。