<埼玉・箭弓稲荷>巨大な御朱印でギネスに挑戦


<埼玉・箭弓稲荷>巨大な御朱印でギネスに挑戦

毎日新聞 5月9日(月)20時15分配信
完成した巨大御朱印に朱を塗る関係者ら=実行委提供
この神社 知らないから 今ウィキを見た。

あたしんとこと、そこ 系列が一緒じゃん 頼信なの?? そーなんだ。。
いや日本語がおかしいな。
頼信の血筋と北畠の血筋からうちはきてるから、系列が一緒というより
先祖の血筋がいたとこって言えばいいのか??

系列が一緒って書くと、考え方によっては違う答えに解釈されてしまう。
そこと系列一緒なのは、山津見神社。頼義がいて伝説残したとこに建つ
神社っていう意味で同じ系列。頼義は頼信の子だから。

箭弓稲荷神社 (東松山市)

歴史[編集]

712年和銅5年)の創建と伝えられる。その頃は小さな祠だったようだが、1030年(長元3年)に下総国の城主平忠常の討伐に出かけた源頼信がこの周辺に一泊した際に、近くにあった野久稲荷神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納すると、その夜に白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃し、これは神のお告げだと確信、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は快勝し、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」とたたえたと伝えられる。以来、松山城主、川越城主などの庇護を受けた。
社名の由来については、1028年(長元元年)に下総国平忠常が謀反を企て安房上総下総の三カ国を制圧し、大軍をもって武蔵国に侵攻した(平忠常の乱)。これを受けて源氏の棟梁源満仲多田満仲)の子であり、甲斐国守を勤める源頼信は、忠常追討の綸旨を賜り、鎮圧に向かった。しかし、多勢に無勢、武勇の頼信も心を悩ませた。その時、頼信が布陣する松山本陣近くで古い祠を見つけた。問えば、野久原に鎮まる「野久稲荷大明神」で、本地は「十一面観世音」であるという。
これを聞いた頼信は、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で、武門の守護神であると、大いに奮い立ち、神前に怨敵退散の願書、太刀一振、駿馬一頭を奉納し、ついに忠常を撃退することができた。一説には、白狐に乗った神が弓矢を授けたと伝える。この神恩に報いるため、社殿を再建した。以来、野久稲荷は、箭弓稲荷と号せられるようになった。

だから多田家って源氏 ついでにうちで使ってた後朱印↓


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