太平記の書いた人間サイドは北朝

毎日勉強がはかどるという、ものすごい達成率。一日一回ならば×365日だと

365件分は出せる計算・・・・。

どうりで不都合なものだと思ったわ。そしたら、これをもとに真逆で見ていけば

事実にたどりつく事もある。

太平記の編集は細川と足利。細川は祟りくらってるのを、よく理解してると思うが

また細川が責任をとらなければならない事項が出できた。

細川の子孫 筆頭 とりあえず二名だしておく。

細川 護熙は、日本の政治家、陶芸家。 参議院議員熊本県知事、衆議院議員内閣総理大臣日本新党代表、フロム・ファイブ代表などを歴任した。Wikipedia

近衛忠てる
近衞 忠煇は、現近衞家当主で国際赤十字・赤新月社連盟会長及び日本赤十字社社長。特定非営利活動法人日本紛争予防センター顧問。公益財団法人日本国際フォーラム参与。初名は細川護煇。Wikipedia

ほんであたしは北畠顕家源満仲の子孫。

これどういうことかわかるか?? 馬鹿じゃなきゃわかるだろう。



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文字化けするようだから書き起こす↓ 今度この文章が捏造・脚色あり

太平記』巻第19に、北畠顕家足利尊氏を追撃する場面がある。顕家の軍勢は都合五十万騎、1338年(暦応元)正月八日に鎌倉をたち、夜に日をついで上洛した。
その間前後5日にわたって進軍を続けてたが、「元来(元より)無残無愧
(粗暴な行いや悪事を行っても、少しも恥じない)ノ夷共ナレバ路次ノ民屋を追捕シ
、神社仏閣ヲ焼払フ。惣テ此勢ノ打過ケル跡、塵ヲ払テ、海道23里(左右2,3里)
ガ間ニハ、在家(民家)ノ一宇モ残ラズ、草木ノ一本モ無リケリ」というような
ありさまであった。

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