ほんとに、どいつもコイツもデタラメばっかり 京都の大江氏 作文ここに移すから名乗り出て来い


ほんと 京都はいったい何なんだ??

辻褄合わない事だらけで大変迷惑している

まずよ あちこちの文献ひろっても

パターンがあって 京都と浪岡に全部 繋げられてるのさ

ところが、うちは即位してるし、古文もかなりある

その証拠の品を多々あげてるんだけども、大江良定出てこないのは何でだ??

ひとつのパターンでいうと、大江良定の娘 松代って事 その大江良定は丸森

いた形跡が出ないこと

そして松代の一男一女のうち、大江良定の息子が引き取ったのは松代の一女

文献で言う 顕という名の女児。

これを書いてるのは、日吉神社伊勢神宮関係の宮司 森鎮雄。

それと別に、霊山記録で 青森浪岡の系列は 顕信の子の流れというものと、

萩姫と顕家の間に生まれた子の流れというものと、両方出てくるわけ。

そして、この萩姫伝説っていうのは磐梯熱海に残ってるわけだけど、

そーいや 霊山記録に磐梯熱海の萩姫伝説 一切書かれてないわ。

それが萩姫だっていう俗説で、それが京都からの尋ね人で、何でも病気になり

治したかったらそこに行くといいと言われてたずねたのが磐梯熱海の温泉だと

磐梯熱海方面の話で出てくるわけ。

そーすると、萩姫は京都出って仮定すると、大江良定が丸森にいた形跡がない

ことから、松代も京都出身の可能性もある。

その顕という女子が松代の娘なんだから、それについて本来ならば大江のとこに

出てこなきゃいけない話なのに、なぜかあたしの目につくとこにだけ出てくる。

普通に一般的に考えたら、顕家と婚姻関係にあったのが松代とすれば松代が

正妻の地位で、大江氏の歴史に出てきてもおかしくないのにだぞ??

そして霊山略記では萩姫を顕家の妾の地位にしてある、それが浪岡系図

ところがあたしは書いた。

顕家は20才ちょいで死んでるのに、子供を4人も作ったか??と。

戦の連鎖で一時期は霊山に篭るとまで豪語した男だ そしたらどこに萩姫と

子作りしてるの??って思うわけ。

松代は霊山城にいたんだ。だから落城する時移動したんだけども。

そして、松代との間は1男1女だ。その1女を大江良定の息子、つまり

松代の兄が引き取って大江のとこに入れたと書いてあるわけさ。

その話の出どこ 丸森じゃなくて たぶん京都だぞ??  

なんで資料なしなのか こんな状態でよく今まで 話が通用してきたなと思うし

神道関係者のデタラメな仕事っぷりは、ほとほと軽蔑の域を超えてるから。

ほんでつい最近だ 浪岡系図が京都にあった 調べて出てきたと話題に出たのは。

ほんであたしは書いた。なんで浪岡の系図が京都なのか??って。

そして浪岡のとこ 顕家か顕信か はっきりしないデタラメな書き方でにごし

その後の系図ばっかり 名前がどんどこ出てくる。

仮に萩姫 妾の子というならば、萩姫の出どこ 仮定で日野氏

いつかのウィキだとそーだから。

その日野氏のとこに出てきてもいいはずだ。

その日野氏の娘 カッコ萩姫として顕家といつ どの時期に一緒にいたのか

いつ子作りしたのか 小学生だってこのぐらい考える力はもってるんだから

いい年した大人の資料がこんなんでは 小学生のほうがアタマ狂ってしまう。

一応 萩姫との間に一男一女をもうけたという設定になってるようだ。




そしたら あたしんちはどーなのかって言えば、それはさいさん書いてるとおり

過去帖を安養寺に預けてたらしく、そしたら過去帖焼失したと言われたという話。

それと、江戸時代には過去帖はちゃんとあったんだ うちでは。

それを焼失したとされてきたから、あたしは一部疑って盗まれたんじゃないか

とだいぶ前に書いてた。だから真言宗 あたしの過去帖返せとたびたび書いたんだ。

そしたら、最近 多々資料をめんどくさいながら一冊ずつ調べてたらば

安養寺は、もとはやっぱり天台宗だった。日光院という名だったと鹿島の資料に

書いてあったので、日光院で調べたら天台宗だったわけ。

それで、あたしんちは天台宗にあった仏像があるから、嫌がらせされてるだろう

と想定つくので、過去帖は天台宗横流ししただろって書いてるのさ。

そして、先祖たちの墓のとこがもとは寺でそこが本願寺の寺だったと

鹿島の資料で出てきたから、浄土真宗も組んでると見込んだわけ。

これ 子供にも理解できるよね??

ほんで あたしがイライラしてる理由のひとつが鬼風の話。

これ 相馬の偉人っていう本というか冊子に書いてあるんだけども、

ほんで系譜が書いてあんだけど、あたしはそれをマークして貼り付けしてた

けども、それ 腑に落ちないのさ。

なぜかっつーと、うちでは江戸時代 商売やってて幕府でも大金運んできてた

これはうちの家族から聞いてて明らか。

しかし、あの相馬の偉人という冊子でいくと、鬼風はブラブラと全国放浪してた

とされている。あたしの先祖 使用人にまかせてうちをそんなに空けてた

だろうか??

うちにもいたけど、出た時は商売のなんやかんや やってたと思うし

だいいち、全国プラプラしてたら 幕府で来た時使用人だけの対応か??って

なる。

あの冊子は、鬼風が養子で入ったと書いてある。養子にしたのはうちの先祖で

先祖はうちにも居たと思ってる。

そしてあの冊子でいうと、鬼風の嫁も一緒に放浪していて先に嫁が死に、

あとから鬼風も死んだとされている。

鬼風死んだのは孝明天皇の時だから幕末。

これ 鬼風の系譜 あたしんちの系譜にごちやまぜにしただろ 京都で。

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貞治(1362~1368)年間と、寛文八(1668)年の二度火災に遭うもその都度観音の 威徳を顕し難を逃れたとの霊験譚も。 奥相三十三観音、第三十一番札所。御朱印受所: 真言宗久保山安養寺。 ... 住所(所在地):, 福島県南相馬市鹿島区小池ミタラセ74.

ja.wikipedia.org/wiki/貞治 - キャッシュ
貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後 、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光 厳天皇南朝方が後村上天皇室町幕府将軍は足利義詮足利義満

ja.wikipedia.org/wiki/寛文 - キャッシュ
寛文(かんぶん)は、日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1672年 までの期間を指す。この時代の天皇後西天皇霊元天皇江戸幕府将軍は徳川家綱 。 目次. [非表示]. 1 改元; 2 出典; 3 寛文期におきた出来事; 4 西暦との対照表; 5 関連 ...



大江氏

大江氏(おおえうじ)は、「大江」をの名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣
日本の古代から近世貴族藤原と同じく本姓)であり、苗字ではない。

奈良時代[編集]

古代氏族である土師氏が源流とされる。桓武天皇が即位10年となった延暦9年(791年)に、縁戚関係にある土師諸上らに大枝の姓を与えた。

平安時代[編集]

866年貞観8年)には大枝音人が姓を改め、大江音人となる。大江氏には優れた歌人や学者が多く、朝廷に重く用いられた。中古三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人三十六撰に、大江氏から大江千里大江匡衡大江嘉言、女性では和泉式部赤染衛門らが選出されている。大江匡衡の孫に、平安時代屈指の学者であると共に河内源氏源義家八幡太郎)に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。 11世紀には、摂関家藤原氏を頂点とした家柄の序列が固定されており、大江氏は五位で地方国司、中級ないし下級貴族であった。その一方、家学学者でもあったので、文人貴族を輩出する事になる。[2]

鎌倉時代[編集]

1184年(元暦元年)に河内源氏の棟梁の源頼朝に仕えた大江広元大江匡房の孫であり、頼朝の覇業を内政面で支える。頼朝が鎌倉幕府を開くと広元は幕府の中枢を昇りつめ、広大な所領を得る。広元は子らに領地を分配したことから武家の大江氏として毛利氏をはじめとする武家の祖となる。
1221年(承久3年)承久の乱において京都守護の広元嫡男大江親広が失脚し、また1247年宝治元年)に広元四男の毛利季光が、宝治合戦三浦泰村に味方したために討たれるが、広元次男長井時広の子孫(長井氏)は鎌倉幕府評定衆引付衆などの要職を務め、鎌倉幕府滅亡後も足利尊氏側近として室町幕府中枢にあり、14世紀に伊達氏出羽国置賜郡長井荘を奪われるまで勢力を保った。



ほんじゃ 山王権現を持っていないのに秘蔵につき見ることはできないと何十年

言ってきたのか 日吉神社

その宮司が書いた 大江の記録

奉戴踊りの由来

顕家の近臣桑折五郎は顕家が石津で敵の囲みを受けた時、顕家の命により囲みを
ぬけて霊山城にかえり最后の状況を伝えたが、その頃霊山の攻撃も激しく、五郎
は松代姫を伴い霊山を脱しようとした。しかしその脱出は中々容易でなかったので
一計を案じいろいろに形相を変え旅芸人を装って、主従七人、そのほか供の者
十三人をもって行方郡江垂村に落ち延びた。そして、中館に山王、熊野、両神
遷幸したが、熊野神は後、柚原の里に移し奉ったという。
数年後、五郎は伊達郡桑折の城より行方郡横手に移った。真野家をつぎ、真野郷
を領したが後に相馬家の属将として田中城主(鹿島町右田)となった。
霊山城脱出の際の異形の踊りは奉戴踊りとして今に伝わっている。
また、山上村横川(相馬市)に松母姫塚があるが、これが松代姫の塚であるとも
言われる。伊具郡の大江良定は娘松代を霊山城に給仕に差し上げたところ、顕家
の寵をうけて、姫顕を生み、松代の兄、良諄はこれを養育して、成長後勅許を得て
わが子広諄にめあわせた。松代は、後比久尼となり、生涯顕家の菩提を弔ったと
いう。

はいここまでが森鎮雄の作文 これ どこで調べて書いたと思う??
まず桑折を主役みたいにして書いてるのって、この連中なんだよね
その桑折って、実際別人だからっていうのが一つ。真野郷を領したとされてるけど
してません。真野家自体がないだろ どんだけ調べても。それについてこういう
宮司ってどんな返事すんだろうね。
いつも通り むすっとしてだんまりで済ませるのか??
そういう連中の顔 もうたくさんっていうくらい見て、うんざりしてんだ。
確信部分を聞かれることが嫌なのか そーだよな??
そして、ここに出てくる丸森の大江良定が今度資料がまったくない!
ほんとーにまったくない。隠してるというより、創作でそもそもなかったんじゃ
ないの??というのがあたしの腹。
あとさ、はっきり書くけど顕家は南朝 田中城主って相馬一族北朝の流れでしょ
顕家の陣営は南朝だったけど、その南朝組から徹底的に追い込まれて小高で多々
自害した相馬藩の連中が、顕家の側近やってる事がおかしいでしょ まず。
相馬藩は追い込まれて自害してんの 会津と一緒 集団で死んだ 小高で。
あと、松代の墓とされてるもの 昭和代に作られてたよ 確か。
見にいって、確認してきたけど相馬藩で松代をなぶり殺しにして山上に埋めた??
だとしたら、尼やってたという森鎮雄の話と繋がらなくなるんじゃねーの??
うちで引き取ったのは仏像と松代の第二子 これ男子なんだけど。
あと、森鎮雄はここに熊野権現のことも書いてるのさ。ところが、考えてみろ
なんで霊山に熊野権現あんの まず。天台宗から持ってきた仏像なのに
なんで熊野権現を霊山から持ってきたと日吉神社宮司は公の資料で発表してんの
かって事。こういう事で、うちの親族 とんでもない目にあってきてんの。
それを命でもって償えってはっきり提示してんだ。
あと、森たちの資料だとすぐ江垂に入った感じだけど、うちの先祖の調べた
ものだと真野の里に数年隠れてたとある。そっからの中館つまり江垂への移動で
その江垂も城が落ちたとなってた。あとうちの先祖の調べでは
真野五郎駿河守則家

ところが日吉神社含め神道関係者は桑折五郎と言ってるので名前が違う。
つまり、別人。


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    これ 公の機関でこういう事を平気でやってきた事 犯罪ですからね。
   宮司の責任か 公の機関の責任か はっきりしてちょーだい。