大阪歴史博物館で「難波宮前夜の王権と都市」展 大阪の起源に迫る /大阪


これで百済が出てくるとこで まず ブチッとくる


百済が出てくるのは百済が日本に侵食したから。 

あたしが何度も書いてる。

どうしても学者や宗教関係者が誤魔化ししてきたから、そのせいであたしんち

はとんでもない目にあった これも事実。



そしたら あたしがわかる歴史の真実で言うとこのアキヒト達は百済朝=北朝子孫

難波京は645年 遷都 これは地域的なもの まずそこがポイント。

あと645年というのは百済がやたらと入ってきた時期でもあり。



1,古墳時代のものは古代高麗

2,5世紀でガラス・土器 これは貿易によるものと流通によるもの

3,6世紀から7世紀で土師器 これは近くで作っただろう物

1,と2,と3,はこの下の文章にあったものの関連性を指してる あたしが思う属性

大阪歴史博物館で「難波宮前夜の王権と都市」展 大阪の起源に迫る /大阪

みんなの経済新聞ネットワーク 7月27日(水)13時5分配信


難波宮


漢族と百済新羅の区別がかなり出来てきている。

○30代敏達天皇の子 男子(孝徳)と女子(皇極=斉明)

36代孝徳天皇645年=漢と百済の血 

35代皇極642年=斉明天皇=漢と百済の血 
※斉明の斉は斉国 37代もやってる事にされてる

○34代舒明天皇の子 男子(天智)と男子(天武)

38代天智天皇668年←コイツはむっちゃ百済 ほんで殷

40代天武天皇673年←コイツは漢の色が強し

漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇漢風諡号と同様に、奈良時代淡海三船が「最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる[1]

乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都

孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。

683年(天武12年)には天武天皇複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった[4]



はい 実在してました 確定です↓ ほんで時期は4世紀 

つまり古代天皇の血筋は継体で途切れてるのも確定

ちなみに成務天皇は景行と八坂の子だから倭と古代新羅の血

日本の都が関西にあったというのは、こじつけ確定でもある。

そのこじつけエリアの古墳などという捏造ものを管理する連中も捏造組で生きてる。

昔 古墳やなんかを捏造したのさ。桓武の時に捏造と見栄で作らせた感じだと思う。

あと難波は百済が乗っ取りした貿易拠点のひとつ。

もともとその百済や漢族がいたわけでなく、文明があったものまで武力行使

飲み込んだというあたしの判断。

でなきゃ、河内源氏は存在しなかった。

だからその百済と漢族の豪族は そのエリアに魏や鮮卑がいた事を知ってたはずだ。

いたというより、少し滞在で移動しただけ。

それがあたしが前から直感で感じてる 百済からえんえんと逃げていたという根拠。


『記・紀』に載せる成務天皇旧辞部分の記事は、他の天皇のそれに比して極端に文量が少なく、史実性には疑いが持たれているものの、実在を仮定すればその年代は4世紀半ばに当たると考えられている。