あと いつだったか書いた伊勢北畠は北畠ではないと書いてた件 忘れるから書いておく

織田信雄 伊勢国司北畠氏の養子

つまり伊勢国司北畠氏はもう北畠ではない

まず 伊勢神宮天台宗浄土真宗がうちの過去帖をいじってるのは確か。

その伊勢がこの流れで意気込んでるんであれば、伊勢は途中から織田の血になってる

と過去書いてるはずだ。

織田が北畠を名乗ってうちのものをいじぐる事はまず間違いだし

何やってんの????にムカムカマークもたくさん出てくるわけだけど

消えるべき相馬一族からカツアゲした伊勢とはこの人たちであり、あたしんちは

関係ないの まず。

あと、初代の伊勢北畠自体の出目があやしいんだからすでに。

あたしはだいーぶ前に 伊勢北畠の顕能がまずどっかの連れ子なのか 誰??

と書いてたけども、つーか後村上天皇村上天皇の子だろ 顕能って。

顕家がとんでもなく子供いたように捏造したのも村上天皇の系列だぞ。

早死にしてんのにそんなに子供作れるか!っていつだか書いた事ある。

霊山神社の記録は、だから かなりおかしい。

つーか じいちゃんの記録 いい加減に編集したよな

あたし その本できる前のものを持ってるんだ 。だから霊山記略自体がおかしい

のも あたしがわかんの。

その霊山記 ごちゃごちゃに編集した連中がうちのじいちゃんに対してまず不敬

すぎんのな。

ほんで 霊山記略で、なぜこれを添付してない??  

これは霊山神社にある品物だぞ 見てみろ 印鑑ついてあるから。

ここまでわかってるものを、霊山記略では、青森浪岡が顕家子孫のように

手を加えた。加えたのは編集者たちだ。その編集者の中心に青森浪岡がいたんだよ。

だから、こんな重大な公文書があたしんちに残ってるのにもかかわらず

自分のとこ 青森につなげるような編集をし、あえてそれを本にして配布した。

それ自体があたしの怒りかってるの いまだにわかんねぇーのかな 宮司たち。

イメージ 1

イメージ 5


こんな重大な公文書があたしんちに残ってるのにもかかわらず

霊山神社に関わった人たちはあたしんちへの人権侵害作った加害者だから。

相馬藩だけじゃなく、神社や寺があたしんちのものを勝手に利用し

自分らの売名に利用した。

    こんな事 何百年もやってきてたんだ 宮司や坊主 公家や武士は。

   これな 世間に公開したら、嫌でも公文書だってわかるから いかに

  うちの家系が 他の連中に振り回されて ひどい目にあってきたかがわかる。

    イメージ 3イメージ 4

  これが出てきた段階で、中尊寺はあたしんちの事がわかってなきゃおかしい↓

           中尊寺 すなわち天台宗だよ。

 なんでこういうのを、うちでちゃんと調べなかったのか。こーいうのな

 ほとんど蔵の中にしまってあって、電気入れてても電気の球も交換しないよう

 な具合だったから、気にしてても、まさかてんこもり、とってあるとは

 思ってなかったんだ 親たちが。ほんで親たちが、詳しくは教えられてなかった。

 それがいつか書いた じいちゃん達がわが子や子孫守るために詳しく教えなかった

 という事だよ。あまりに外野の捏造が拡散すごくて。

 ひとつ覆しても、他にもあちこちから違う事出てきて照合すると辻褄あわなくて。

 あと、相馬常胤の時、神威語って相馬常胤から献金受けてた伊勢っていうのは

 あたしんちではなく、伊勢だ。それは伊勢と相馬の話。

 今度、一向宗の移民や相馬藩があたしんちを豪商語って罵り、金・金・金

 とタカリ。

 顕家の子が相馬で死んだ ほんで山上には母親の塚があるなんていう

 奥相志デタラメ編集し、さらに野馬追いで士気語って神事ではない勝手な利己祭

 を毎年やってんのも不敬はなはだしいって これ意味わかんね??

   大金返せって言われてる連中はその何百年罵ってタカり続けた連中の落とし前だ。

 きちんと清算もしねぇーで「オレ達は武将だぁー」はまずない。

 武将ではなく盗賊だから。盗賊が武将 それを海外にまでアピール。

 これキチガイの沙汰だぞ まず。

イメージ 11イメージ 12
  
イメージ 2

これが伊勢と青森に対する あたしからの警告

あと天台宗への警告

イメージ 9イメージ 6

はい 公文書 これは福島県知事分↑ 見てみろ この印鑑の数

これ 日吉神社がおかしな捏造した後かもしれん

いったい県知事って何する仕事だ??

イメージ 10

イメージ 7

イメージ 8

なんびとも山王さんは見ることができないと書いてあったのは

あたしんちにあっからだ

つまり 勝手に利用したんだ 周辺の人間たちが それが相馬藩

もう盗人容疑 いくつ重なってるか・・・・。

そしたら盗人容疑 うちから何度も金をタカり返済してない相馬藩

もう盗人だわな

あげく うちの過去帖は焼失でなくなりましたと言う寺

これ 焼失したなら 放火だろってさいさん書いていた。

yumesoso.jp > トップページ > 観る - キャッシュ
貞治(1362~1368)年間と、寛文八(1668)年の二度火災に遭うもその都度観音の 威徳を顕し難を逃れたとの霊験譚も。 奥相三十三観音、第三十一番札所。御朱印受所: 真言宗久保山安養寺。 ... 住所(所在地):, 福島県南相馬市鹿島区小池ミタラセ74.

ja.wikipedia.org/wiki/貞治 - キャッシュ
貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後 、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光 厳天皇南朝方が後村上天皇室町幕府将軍は足利義詮足利義満

ja.wikipedia.org/wiki/寛文 - キャッシュ
寛文(かんぶん)は、日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1672年 までの期間を指す。この時代の天皇後西天皇霊元天皇江戸幕府将軍は徳川家綱 。 目次. [非表示]. 1 改元; 2 出典; 3 寛文期におきた出来事; 4 西暦との対照表; 5 関連 ...

 
まぁ 寛文だろうな 火災は。ごっそり前のがないっていうのは。

もろちん放火なら相馬藩か天台宗一向宗だと、これも書いてる。

吉左衛門の時はあったと仮定すれば、その頃に消された。

あるいはそれ以前。

だからその前をたどれない だからその前の墓参りしたくても行けない。

しかし、辿れてたんだ 江戸前期の書かれたものも見つかったが

それ以前の文献も出てきてる。

それを訳す人間がいないだけだ。誰かの利権をかばってるから大学クラスが。

そういうのも含め インチキ天皇家は あたしんちの最大の弊害。

もちろん 役所関係にあたしんちにまつわるものはない。

みんな消された ゴミのように捨てられた。

これを血走ってるとあたしが言ってる意味 わからなければ馬鹿だ。





北畠 顕能(きたばたけ あきよし)は、南北朝時代公卿武将准三后北畠親房の三男で、顕家顕信の弟とするのが通説だが、一説には中院貞平の子で、親房の養子になったともいう[4]建武政権期に父兄とともに伊勢国へ下り、同国司に任じられた後、多気を拠点に退勢著しい南朝軍事力の支柱として武家方に対抗した。伊勢北畠氏の祖。
顕能が薨去したのは、『桜雲記』・『南方紀伝』によると、弘和3年/永徳3年(1383年)7月のことである。その根拠は明らかでないが、同年冬には強硬派の長慶天皇から和平派の後亀山天皇への譲位が行われているので、南朝の柱石であった顕能の死は9年後の南北朝講和へ向けて舵を切る契機となったのかも知れない。

北畠顕泰

南方紀伝』によれば、天授2年/永和2年(1376年権中納言伊勢国司に任じられたと伝えるが、『古和文書』にある文中2年(1373年)9月8日付の御教書写が顕泰の発給に係るものとすると、当時既に国司を継いでいた可能性も否定できない。やがて正二位権大納言に至り、右近衛大将を兼任する

元服時に室町幕府第3代将軍足利義満から偏諱を賜い満雅と名乗る(これは義満が子の義持に将軍職を譲る応永元年(1394年)までに済ませているであろう)。

北畠教具

父が戦死した時は7歳とまだ幼少であった為、叔父の大河内顕雅が政務を代行していた。嘉吉元年(1441年)、19歳で伊勢国司となり、将軍の足利義教から一字を賜って教具と名乗った。

北畠政郷

元服に際して、室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱を与えられ、政具(まさとも)と名乗る。

北畠材親

応仁2年(1468年)、第5代当主・北畠政具(のち政郷、政勝に改名)の長男として生まれる。はじめ具方(ともかた)を名乗るが、のちに第10代将軍足利義材(のちの義稙)から偏諱を受けて材親と改める。

北畠晴具

文亀3年(1503年)、第6代当主・北畠材親[1](具方)の嫡男として生まれる。

北畠具教

享禄元年(1528年)、第7代当主で参議北畠晴具の長男として生まれる。

北畠具房

天文16年(1547年)、第8代当主・北畠具教の嫡男[1]として生まれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%B7%E6%88%BF

北畠家時代[編集]

永禄12年(1569年)、父・信長の北畠家攻略戦の和睦条件として、北畠具房の養嗣子となって[1]、具房の妹の雪姫北畠具教の娘)を娶った。元亀3年(1572年)に元服して北畠具豊と称した。天正2年(1574年)7月には北畠軍を率いて第三次長島侵攻に参戦し、大船に乗って戦った[2]天正3年(1575年)に北畠家家督を相続し、大河内城から度会郡田丸城へ移った[3]。同年、越前一向一揆討伐に参戦し塙直政滝川一益神戸信孝長野信良と共に転戦した[2]。この頃から津田一安の補佐の元、家中の実権を掌握し始める。