宮司と坊主 死滅した人間に北畠姓をかぶせる意図的犯罪 責任どうとるの??


そしたら盗人容疑 うちから何度も金をタカり返済してない相馬藩

もう盗人だわな

あげく うちの過去帖は焼失でなくなりましたと言う寺

これ 焼失したなら 放火だろってさいさん書いていた。

あと寛文って伊達騒動あったんだな

ほんでは伊達藩も放火容疑が出てきた。

うちにある伊達騒動の古文あるから。




伊達騒動(だてそうどう)は、江戸時代前期に伊達氏仙台藩で起こったお家騒動である。黒田騒動加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。騒動は3期に分類され、それぞれが関連性を持っている。

綱宗隠居事件[編集]

仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧[1]であったため、叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌言したが聞き入れられなかった。このため宗勝は親族大名であった岡山藩池田光政[2]柳川藩立花忠茂[3]宮津藩京極高国[4]と相談の上、老中酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴した。
にもかかわらず綱宗の放蕩は止まず、ついに1660年万治3年)7月9日に家臣と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名で幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出た。7月18日に幕府より綱宗は21歳で強制隠居させられ、4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任した。
なお、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請け話やつるし斬り事件などは俗説とされる[5]。また、綱宗の隠居の背景には、綱宗と当時の後西天皇が従兄弟同士(母親同士が姉妹)であったために、仙台藩朝廷が結びつくことを恐れた幕府が、綱宗と仙台藩家臣、伊達一族を圧迫して強引に隠居させたとする説もある[6]

寛文事件[編集]

一般に伊達騒動と呼ばれるのは、この寛文事件を指す。
綱村が藩主になると、初めは大叔父にあたる宗勝や最高の相談役である立花忠茂が信任する奉行(他藩の家老相当)奥山常辰が、その失脚後に宗勝自身が実権を掌握し権勢を振るった。宗勝は監察権を持つ目付の権力を強化して寵愛し、奉行を上回る権力を与えて自身の集権化を行った。奉行の原田宗輔もこれに加担して、その中で諫言した里見重勝の跡式を認可せずに故意に無嗣断絶に追い込んだり、席次問題に端を発した伊東家一族処罰事件が起こる。
かつて奥山を失脚に追い込んだ一門の伊達宗重涌谷伊達氏)と宗勝の甥にあたる伊達宗倫登米伊達氏)の所領紛争(谷地騒動)が起こり、一旦宗重は裁定案[7]を呑んだものの、宗勝の寵臣の今村を筆頭とする検分役人による郡境検分で問題が生じたことにより、伊達宗勝派の専横を幕府に上訴することになった。
寛文11年(1671年)1月25日、柴田朝意は騒動の審問のために伊達宗重より早く江戸幕府より江戸出府の命を受け、仙台より江戸に立つ。また朝意は田村宗良に、自身の老齢を理由に古内義如の江戸出府を要望する。
同年3月7日に伊達宗重、柴田と原田が老中板倉重矩邸に呼ばれ、土屋数直列座の下で1度目の審議が行われ、最初に朝意が審問を受けた。この審問で、藩主の伊達綱基(後に改名して綱村)への処分がないことが確定した旨の書状を朝意は隠居の綱宗の附家老や田村家家老に送っている。なお、原田と柴田の証言の食い違いにより、古内も呼ばれることとなった。
同年3月27日に当初予定の板倉邸から大老酒井忠清邸に場所を変更し、酒井忠清を初め老中全員と幕府大目付も列座する中で2度目の審問が行われるが、その審問中の控え室にて原田はその場で宗重を斬殺し、老中のいる部屋に向かって突入した。驚いた柴田は原田と斬りあいになり、互いに負傷した。聞役の蜂屋可広も柴田に加勢したが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、原田は即死、柴田もその日のうちに、蜂屋は翌日死亡した。関係者が死亡した事件の事後処理では、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に年長の後見人としての責務を問われた宗勝の一関藩は改易となった。
刃傷事件の顛末の記録として、当事者のものとしては古内義如の書状や酒井家家臣の記録があり、伝聞としては伊達宗重家臣の川口が事件直後に古内に聞いた話や末期の柴田からその家臣や藩医が聞いた話、同じく虫の息の蜂屋からその息子や娘婿が聞いた話などがあり、公式記録としては『徳川実紀』や『寛文年録』、仙台藩の「治家記録」などがある他、後世の実録物を加えるとその量は多い。また歌舞伎伽羅先代萩』『伊達競阿国戯場』や、山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』などの題材となった。
派閥は以下のとおり。役職は「仙台市史」より抜粋。


脚注[編集]

  1. ^ 事実でなく、口実であるとする説もある。

残念ながら事実のようだ。

里見の名前も出てくる。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6


イメージ 7


yumesoso.jp > トップページ > 観る - キャッシュ
貞治(1362~1368)年間と、寛文八(1668)年の二度火災に遭うもその都度観音の 威徳を顕し難を逃れたとの霊験譚も。 奥相三十三観音、第三十一番札所。御朱印受所: 真言宗久保山安養寺。 ... 住所(所在地):, 福島県南相馬市鹿島区小池ミタラセ74.

ja.wikipedia.org/wiki/貞治 - キャッシュ
貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後 、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光 厳天皇南朝方が後村上天皇室町幕府将軍は足利義詮足利義満

ja.wikipedia.org/wiki/寛文 - キャッシュ
寛文(かんぶん)は、日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1672年 までの期間を指す。この時代の天皇後西天皇霊元天皇江戸幕府将軍は徳川家綱 。 目次. [非表示]. 1 改元; 2 出典; 3 寛文期におきた出来事; 4 西暦との対照表; 5 関連 ...

寛文

寛文期におきた出来事[編集]

誕生

 
まぁ 寛文だろうな 火災は。ごっそり前のがないっていうのは。

もろちん放火なら相馬藩か天台宗一向宗だと、これも書いてる。

吉左衛門の時はあったと仮定すれば、その頃に消された。

あるいはそれ以前。

だからその前をたどれない だからその前の墓参りしたくても行けない。

しかし、辿れてたんだ 江戸前期の書かれたものも見つかったが

それ以前の文献も出てきてる。

それを訳す人間がいないだけだ。誰かの利権をかばってるから大学クラスが。

そういうのも含め インチキ天皇家は あたしんちの最大の弊害。

もちろん 役所関係にあたしんちにまつわるものはない。

みんな消された ゴミのように捨てられた。

これを血走ってるとあたしが言ってる意味 わからなければ馬鹿だ。



ほんで、不思議なことに出てこないのは顕家と日野氏娘の子供。

それが顕能の子になってたりしてな。

ちなみに、その日野氏の娘が磐梯熱海にある「萩姫伝説」の主だろう。

京都の娘って提示してるようだから。

しかし、顕家は21才で死んでるんだ。顕家はほとんど京にいないだろう。

萩姫との間に子供がいたかどうか、不明扱いにされてる事も、あたしんちが迷惑

した理由のひとつ。



イメージ 1

イメージ 5


イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4



青森浪岡ルーツ

青森浪岡は北畠として大浦氏にいったん滅亡されられている(天正2) 
北畠顕村はとらえられ切腹(天正6)

しかし祖としての顕信との関係性が証明できない

そして青森浪岡氏は北畠顕家の子の子孫と自称するも
つながりが証明できない

第一子が顕信で、それが天童丸だと、たくさんネットに氾濫したが
顕信は宇津峯にいた事だけは濃厚で宇津峯城近くに塚あり
そして、顕信の墓かと思わしき墓あり

この前 現地にて確認済み

そして、過去 山寺に顕信の墓ありとネットに出ていた事から
山寺を確認しに行くも、顕信についての文献 碑はなし!
あそこには、芭蕉の看板だらけ。
つまり、山寺は三重の伊勢北畠が関与してたと思われる。
山寺は天台宗日吉神社そして山王社と作ってある。

しかし、それは本体なきの施設だとあたしは書いた。

それが天台宗と日吉(日枝)神社が長年 やってきた事だ。

三重の伊勢北畠の場合は今度 顕能が顕家の弟とされているが
養子説も濃厚。

さらに伊勢北畠氏は途中から織田家に乗っ取られている。



それに対し あたしんちは山王権現を長い間持つ 
源(多田)満仲の血筋ってこと。

平安時代南北朝時代には、天台宗に出入りしてたのが
多田満仲だっていうのは、あちこちの文献で出てるだろ。

ほんで満仲の子に河内源氏源頼義なんかもいて
それを顕家は
崇拝してたから霊山に入ることが出来た。

しかし、のちに河内源氏はひどい目にあってる。
だから頼信以降 義家以降 名前が出なくなった。

それも天台宗を焼き討ちするぐらいカルト狩りしたからさ。


うちの系譜

北畠顕家と松代の子 第二子 長男 顕成と多田




    現段階ではっきりしてるのは、顕家の第一子が女子であること。

   
       その女子の名が顕と言われてる資料があること。

       その女子を引き取りしたという勢力が二つあり。

       ひとつは、松代の兄 大江氏の子(松代の兄)
 
       ひとつは、安東氏 ※安東は津軽 つまり浪岡系



    さて 捏造してきた連中は、あたしがどんだけ資料つかんでいるか想像した上で

 過去文献から文章を引っ張りだしてんだろうが、それ自体が伊勢北畠と青森浪岡

 の捏造からきてるものだという疑いがものすごく強い。

 それを調べてる人たちがたくさんいる事をしかと受け止めるべき。

 こうやって、長い間 余計な事をして詐称が通ってきた連中のおかげで

 どんだけ迷惑をこうむったか。ぶっ殺されたいと名乗ってるんだろ??

   


 あと そーいやここに出てくる これ