戦には対峙するもの同士の言い分がある。しかし、共存があったとして、ひとんちに土足であがったり金の借用書を強奪したり、系図を盗んで流用していい理由にはならない。

相馬には正当化できるものがほとんどない。

あたしの言い分のほうが世間では通常判断。

もともと馬稜城は相馬の城ではない



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貞和二年(一三四六)、吉良貞家、畠山国氏の二人が派遣され二頭体制による奥州管領 が設置、旧南朝勢力の奥羽の有力諸 ... 三浦若狭守が何者かはよくわかっていないが、 翌文和二年(一三五三)、中通り地方の宇津峰城攻略戦には若狭守と守護代の葦 ... 奥州でも葦名氏だけでなく相馬氏も鎌倉時代末期から浜通り北部に定住するようになり 、同じ三浦一族である猪苗代氏や .... 同一一月、政宗侵攻に対抗して二本松の畠山 氏を助けるため蘆名・佐竹・岩城・白河結城氏の連合軍三万が北進、伊達 ...


だから うちのものを使い込みしていいという教育のもとはいったい何??

それを探ってる。週末の暇人に一斉に拡散されてるから これ。

いいか?? 奥相志は相馬の連中昔のヤツが編集してきてんだ。うちから金を強奪し

殺した連中が、いかにあくどいことをやってたかは、記されるわけがない。

その隠された部分の被害者がうちだ。

これを徹底的に追求する。

そして小高城南朝に囲まれて相馬の女と子供は死ぬとこだったのを家臣がきて

顕家に確認した。「どうしますか??」って。ほんで「助けてやれ」と言った顕家の

家系だ うちは。

そんで ここまでされてきた。あたしが與惣治や源孫のものを調べ尽くさないと

わからなかった。それを調べられて困る連中はあたしんちの家系図を流用したり

殺したり金の借用書を強奪したり火災にして顕家の幟旗や熊野権現を焼失させた

という連中だ。

そのあたしの前であちこちに九曜紋を入れまくり、将門さまーって拝んでるわりに

将門の子孫だという根拠がない相馬一族と、それから金をもらって生きてきた連中。







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中村神社には宇太郷(相馬市)、北郷鹿島町)、太田神社には中ノ郷(原町市)、小高 神社には小高郷(小高町)、標葉 ..... 北畠顕家に与した、いわゆる南朝方の結城宗広の 一族中村広重が守っていた城である。 ...... 管領となった吉良貞家、畠山国氏の指揮の 下、南朝軍の永年の拠点である霊山城と宇津峰城に総攻撃をかけた。