内務省にいたのは平岡だけか?? 長期で六年。うち一名は内務省平岡。



樺太庁(からふとちょう、ロシア語Префектура Карафуто)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。
この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。





平岡 定太郎(ひらおか さだたろう[1]文久3年6月4日1863年7月19日) - 昭和17年(1942年8月26日)は、日本内務官僚樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等兵庫県平民[2]
作家三島由紀夫の祖父。農商務官僚平岡梓の父。

明治25年(1892年)7月、帝国大学法科大学を卒業し、内務省に入省する。明治26年1893年)11月27日、永井岩之丞の長女・夏子(なつ)と結婚。翌年の明治27年(1894年)10月12日、長男・を儲ける。同年10月、徳島県参事官に就任。明治28年(1895年)5月、栃木県警部長に就任[4]明治30年(1897年)、衆議院書記官に就任。明治31年(1898年)、衆議院書記官兼内務省参事官に就任。その後、内務省参事官兼内務事務官高等文官試験官などを歴任する。明治32年(1899年)、広島県内務部長に就任。明治35年(1902年)、宮城県内務部長に就任。明治38年(1905年)、大阪府内務部長に就任。
明治39年1906年)7月、原敬の命で福島県知事に抜擢され就任。知事として、保育所、幼稚園、農学校、商業学校、女子技芸学校にいたる各種教育施設や、公園、鉄道をつくった。明治41年(1908年)6月11日、樺太庁長官に就任。樺太の森林資源開発、パルプ工場建設、鉄道施設・港湾の整備、船舶の航路、炭田の開発などに尽力する。大正2年(1913年)、南満州鉄道会社の総裁候補になり、新聞に名が挙がる。大正3年(1914年)6月、反政友会農商務大臣・大浦兼武の策謀による公金流用疑惑のため、原敬樺太庁長官の辞意を伝え、辞表を提出する。大正5年(1916年)5月、定太郎の公金流用疑惑「漁業資金・印紙切手類事件」に無罪の判決が下る。その後、定太郎は南洋精糖株式会社取締役、蓮華鉱山合資会社社長などを歴任後、大正9年1920年)10月、東京市道路局長に就任するが、同年12月、東京市道路局長を辞任。大正10年(1921年)11月4日、定太郎の後ろ盾であった原敬暗殺される(原敬暗殺事件)。

昭和5年(1930年)8月22日、前樺太庁長官の定太郎を顕彰する銅像樺太神社に建立され、除幕式が行われる。昭和9年(1934年)5月9日付の新聞に、明治天皇の親筆と偽った書を売り捌く詐欺団首魁として逮捕されていたことが顔写真入りで載るが、2ヶ月後の7月、怪しげな連中にただ担がれただけ、と判断され不起訴となる。昭和14年(1939年)1月18日、妻・なつ潰瘍出血のため死亡し、その半年後、定太郎も軽い脳溢血の発作を起し、杖を離せなくなる。昭和17年(1942年)8月26日、79歳にて死亡。菩提寺愛宕青松寺。孫・公威は詩・『挽歌一篇』を作る。



今村 武志(いまむら たけし、1880年 - 1960年)は、日本の元官僚、元政治家である。
戦前日本の植民地における要職を歴任した後、戦時下および終戦直後の仙台市長を務めた。

経歴[編集]

1880年明治13年)、宮城県宮城郡多賀城村(当時)に、農家の長男として生まれる[1]。学歴は、宮城県中学校第二高等学校を経て、東京帝国大学法科卒業[1]
1908年明治41年)に大学卒業後は、高級官僚として朝鮮総督府に入り要職を歴任し、黄海道知事にも就任した。1931年昭和6年)、内地に戻り、1932年の齋藤内閣発足とともに樺太庁長官となって、1938年まで務めた[2]。退職後には、日本拓殖協会理事に就任した[1]



多賀出身の今村っていう人は知らん。朝鮮総督府じゃないか 勤めが。
朝鮮総督府だと6年就任ってか??



平岡のじいさんはたいしたもんだな。