熊野大社 日本一の作るかな 喜多方と和歌山と名取と山形か スタッフになんのは

熊野の人たち やりてーだろ??

あたしんちの物は日本一だぞ どれもこれも

あたし 神事をどうやってたか まったくわかんねーんだ

吉左衛門の神事過去 全部 この人殺し泥棒放火のクソどもが捏造し消したせいで

それらに公務員や警察もかなり混ざってるんだとさいさん言ってる



そいつらの年間収入なんぞ 合算しても

あたしんちが強奪した金には及ばないんだぞ??

なのに付きまとって そこにいて ご利益に飯食ってんだぞ??



他の見向きもされない地域で これ嫉妬対象だろ??

あたしはこいつらに 便乗すんなと

そこにいるなとさいさん言ってるんだぞ??



本来ならば 山王大権現で宮を日本一でやればいいのよ

しかし 山王大権現でいけば必ず 日吉神社日枝神社がついてくるだろ??

これはな

過去 あたしんちが熊野で建てたのに日吉神社とされてしまった事

詐欺といっしょだ 熊野で金出してんだから

この詐欺行為があった以上 日吉として出てくる連中を信用できないって事



んじゃな

どうあるべきだったか

南相馬史書日吉神社の経歴として

過去 ここは北畠顕成の居住城とされ、その城の建設は南北朝時代

その城の城主 真野氏の代とされる

その中舘城は後に北畠顕成の廻船業の拠点となり、父顕家卿の遺産である

山王大権現と熊野権現は、その地屋敷に配置され 多くの幕府関係者が出入り

し参拝されてたとされる。


実際はこーなるはずなんだ↑



しかし、江戸時代中に鹿島大火の頻発においてその屋敷が焼失されたとし

鹿島の中心街へと移動された顕成公吉左衛門の子孫が

その時に山王大権現と熊野権現も移動し 隔離

その時に神事が絶えてしまい、その後も動乱で火災や賊の頻発により保護され

隔離されていた本尊が遷宮という形で、大正時代に神事の復活を執り行い

はじめたもののさらに第二次世界大戦の勃発で神事は途絶え、

大正時代 吉左衛門こと顕成氏子孫の文四郎氏が建立した石蔵に安置されたまま

戦時は戦火を回避した。

戦後 吉左衛門の子孫が石蔵の門扉を開放し、ようやく人前に出るも

かつての神事記録がなく同じ行事を執り行うことができなくなっていた。

文四郎氏の子孫が戦後 数年のみ、神事ではなく祈願所としてその地で本尊を

解放していたものの、その時に熊野権現はなくなっていたため

山王大権現と脇の二つ その三体のみが遷宮された位置で子孫の一部にのみ

守護として置かれていた。

何度か 公にこの本尊を預かってもらい民間に見てもらいたいと新聞社にも依頼し

掲載もしてきたが、その状態で蔵に安置されてきた。

東日本大震災が発生した際に蔵は壊れ、危険になった本尊を蔵から出し

その長い間守ってきた蔵は震災をきっかけに、修復することもできず取り壊しと

なった。本尊は平成27年より子孫が自費で修復を仏具店に発注し平成28年

修復完了し子孫の元へ戻り その守るべき資格のある者のもとで安置されている。



真野城城主 真野を殺したのも相馬藩でしょ

真野は誰と戦してたって??

松代とその子を殺す気してたのも相馬でしょうが ほんで霊山神社でほら貝??



子供が生きてるのに あたしんちの金強奪し殺害してきた人殺したちが

なんであたしの今作ってる金で生きてるのか

生きてては困る 死んでもらわないと



当然 警察やなんか あたしんちの過去加害者は全部だ