大宰府に関して


1101年頃の大宰府に関する人間を調べればハメた連中が出てくるはずだよな

大江匡房永長2年3月(1097年5月)任中納言



大江 匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代後期の公卿儒学者歌人大学頭大江成衡の子。官位正二位権中納言江帥ごうのそつ と号す。藤原伊房藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では中納言匡房

平 正盛(たいら の まさもり)は、平安時代後期の伊勢平氏武将北面武士。父は平正衡平清盛の祖父にあたる。

白河上皇院政伊賀の所領を寄進するなどして重用され、検非違使追捕使として諸国の盗賊を討伐するなどして活動した。
反乱を起こした源義親を討つ命令が父親の源義家に下るが、義家が死去したため、その後継者である義忠に義親討伐の命令が下る。しかし義忠は兄を討てないと躊躇したため、義忠の舅である正盛が代わりに討伐に向かい、天仁元年(1108年)に乱を鎮圧したとの知らせがもたらされた。その功績により但馬守に叙任。後、天永元年(1110年丹後守、永久元年(1113年備前守を勤めた。ただし、義親の討伐において、実際に義親を討つことに成功したのかは不明。この事件後も義親を名乗る人物が何度も登場し、史上に痕跡を残した。当時も勇猛な義親をそれほど武に優れているとは認知されていなかった正盛が討ったのかについて疑問があったことは中御門宗忠の日記『中右記』などにも記されている。保安元年(1120年讃岐守

経歴[編集]

前九年の役後三年の役で活躍し「天下第一の武勇の士」と尊崇を集めた父譲りのつわもので、対馬(悪対馬守義親)と呼ばれた(後の源義平の通称「悪源太」と同じく、強いという意味での「」である)。
従五位下に叙せられ左兵衛尉、ついで対馬守に任じられるが、九州を横行して、人民を殺害し略奪を働いた。康和3年(1101年)に大宰大弐大江匡房から訴えがあったため、朝廷で追討が議される。父の義家は郎党・藤原資道を遣わして召喚を試みるが、資道は義親を説得できず逆に義親に従ってしまい官吏を殺害するに至った。
康和4年(1102年)、朝廷は義親を隠岐国へ配流とする。だが、義親は配所には赴かず、出雲国に渡って目代を殺害し、官物を奪取した。このため、いよいよ義家が自ら息子の追討へ赴かねばならない状況になったが、嘉承元年(1106年)に義家は死去した。
嘉承2年(1107年)12月、朝廷は平正盛を追討使に任じた。嘉祥3年(1108年)正月には、はやくも正盛は義親を誅したと報告。正盛は京へ凱旋し、朝廷より恩賞が授けられ、義親は梟首とされた(源義親の乱)。
河内源氏では内紛が起こり、天仁2年(1109年)義家の子で、義親の弟であり家督を継いだ義忠が暗殺された。その嫌疑を受けた義綱(義家の弟)が為義(義親の子、一説では義家の子)の追討を受け、一族は滅ぼされ、義綱は佐渡国流罪となった。為義が家督を継ぐ[要出典]が源氏は凋落し、平氏が台頭する。