大宰府に関して
1101年頃の大宰府に関する人間を調べればハメた連中が出てくるはずだよな
大江 匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥(ごうのそつ) と号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では前中納言匡房。
反乱を起こした源義親を討つ命令が父親の源義家に下るが、義家が死去したため、その後継者である義忠に義親討伐の命令が下る。しかし義忠は兄を討てないと躊躇したため、義忠の舅である正盛が代わりに討伐に向かい、天仁元年(1108年)に乱を鎮圧したとの知らせがもたらされた。その功績により但馬守に叙任。後、天永元年(1110年)丹後守、永久元年(1113年)備前守を勤めた。ただし、義親の討伐において、実際に義親を討つことに成功したのかは不明。この事件後も義親を名乗る人物が何度も登場し、史上に痕跡を残した。当時も勇猛な義親をそれほど武に優れているとは認知されていなかった正盛が討ったのかについて疑問があったことは中御門宗忠の日記『中右記』などにも記されている。保安元年(1120年)讃岐守。
経歴[編集]
従五位下に叙せられ左兵衛尉、ついで対馬守に任じられるが、九州を横行して、人民を殺害し略奪を働いた。康和3年(1101年)に大宰大弐・大江匡房から訴えがあったため、朝廷で追討が議される。父の義家は郎党・藤原資道を遣わして召喚を試みるが、資道は義親を説得できず逆に義親に従ってしまい官吏を殺害するに至った。
康和4年(1102年)、朝廷は義親を隠岐国へ配流とする。だが、義親は配所には赴かず、出雲国に渡って目代を殺害し、官物を奪取した。このため、いよいよ義家が自ら息子の追討へ赴かねばならない状況になったが、嘉承元年(1106年)に義家は死去した。