ほんで学習院小・中・高・大 これらの学校作ったのが泥棒岩倉具視


で岩倉の師匠が仇のひとり鷹司と伏見

朝廷改革の意見書を政通に提出し、積立金を学習院の拡大・改革に用い、人材の育成と実力主義による登用を主張した。公家社会は身分が厳しく、家格のみで官位の昇進まで固定されていた。大多数の下級公家は朝議に出席できる可能性も薄かった。聴取した鷹司は意見書に首肯したものの、即答は避けたとされる[1]


出生から若年期[編集]

公卿堀河康親の次男として京都に生誕。幼名は周丸(かねまる)であったが、容姿や言動に公家らしさがなく異彩を放っていたため、公家の子女達の間では「岩吉」と呼ばれた。朝廷儒学者伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。
天保9年(1838年)8月8日、岩倉具慶の養子となり、伏原によって具視の名を選定される。10月28日叙爵し、12月11日に元服して昇殿を許された。翌年から朝廷に出仕し、100俵の役料を受けた。
岩倉家は羽林家の家格を有するものの、村上源氏久我家から江戸時代に分家した新家であるため、当主が叙任される位階・官職は高くなかった。また代々伝わる家業も特になかったので、家計は大多数の堂上家同様に裕福ではなかったという[注 1]
嘉永6年(1853年)1月に関白鷹司政通へ歌道入門するが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。



代 氏名 就任時期 備考
初代立花種恭1877年 - 1884年三池藩第8代藩主、子爵
第2代谷干城1884年1885年陸軍中将、子爵
第3代大鳥圭介1885年 - 1887年枢密顧問官男爵
第4代三浦梧楼1887年 - 1892年3月26日陸軍中将、子爵
第5代岩倉具定1892年3月26日 - 1892年10月20日宮内大臣公爵
第6代田中光顕1892年10月20日1895年3月19日陸軍少将内閣書記官長宮内大臣、子爵
第7代近衛篤麿1895年3月19日 - 1904年1月2日貴族院議長公爵
第8代菊池大麓1904年8月4日 - 1905年10月12日京都帝国大学総長男爵
第9代山口鋭之助1906年1月18日 - 1907年1月31日京都帝国大学教授、物理学者
第10代乃木希典1907年1月31日 - 1912年9月13日陸軍大将伯爵
事務取扱白鳥庫吉1912年9月16日 - 1912年11月25日東京帝国大学教授、東洋史学者
第11代大迫尚敏1912年11月25日 - 1917年8月25日陸軍大将、子爵
第12代北条時敬1917年8月25日 - 1920年宮中顧問官
第13代一戸兵衛1920年1922年陸軍大将、教育総監
第14代福原鐐二郎1922年11月3日 - 1929年10月28日東北帝国大学総長
第15代荒木寅三郎1929年10月28日 - 1937年4月6日京都帝国大学総長
第16代野村吉三郎1937年4月6日 - 1939年9月25日海軍大将
第17代山梨勝之進1939年10月7日 - 1946年10月5日海軍大将


学習院(がくしゅういん)は、旧宮内省外局として設置された官立学校1947年(昭和22年)に官立学校としては廃止され、新たに私立学校として再出発した。