ほんでな。松浦武四郎くんの歴史


まず今のあたしがわかる内容を教える。

まず前九年で移動した安倍氏って大嶽丸なのな。安倍晋三とする。

ほんで、岩手方面から熊本のあたりに入ってるのは、熊本の地ってそもそも「楚」なの。楚移民のとこ。

そこに入れたのは「楚」だからなんだよ。楚と魏ならば価値観同じだからな。

そこの地域に付いたあだ名が「熊襲」クマソっていうのは楚の姓がそもそも「熊」だからなんだ。

ほんで肥後熊本っていうのは、南朝寄りなの。あたし寄りって事。

だから明治維新で活躍したのがそっち方面の南朝武将子孫達なのさ。ほんで担がれたのは、南朝信仰だから南朝天皇

それが史実の本体。

ほんで、その南朝武将の力と戦ったのは百済なのさ。

それがそうすると、江戸幕府って事になるだろ??江戸幕府は後期には百済に乗っ取られてたってことをあたしが勘付いた時から、ちゃんと結果は出てたんだ。

ほんで松浦水軍っていうのはもちろん大嶽丸の軍勢なのさ。

それが過去戦ったのが、元寇。つまり相手は元・蒙古。
つまり殷。殷の派生だから、元も馬韓も秦韓も百済も。

ほんで平家っていうのは桓武平氏ではないの。平家は平家なの。それと松浦が組んだのも、正当性あり。
あたしサイドだから平家は。

そんで源氏の迫害から逃れたという点について。この源氏とは百済面に落ちた源頼朝親子の陣営を指す。

あたしは源氏だが、頼朝親子は仇だ。その頼朝の父親はな、源満仲の遺産を百済に貢ぎ、勢力くださいって拝んだたわけ者だ。

なので、満仲の派生で正しいのは源頼義源義仲など。

松浦はうちサイド・本来は。

ほんで大嶽丸子孫は山口に多賀神社を作った。大嶽丸の盟友だからな。その多娥丸っつうのはあたしの系統の事。

だから松浦方面に鷹島ってあんだろ。

娥島でなく鷹島にしたんだろう。


鷹島に鷹飛んでいるか??


松浦氏


安倍宗任の系譜[編集]

平家物語』の百二十句本(国会本)剣の巻によれば、安倍宗任前九年の役で敗れたあと、治暦3年(1067年)に太宰府に流されるが、子孫繁栄して松浦姓を名乗ったという説がある。この伝えは、百練抄前太平記歴代鎮西要略でも記されている。
この説では、安倍宗任は、宗像氏の配下となり、筑前大島の統領となる。宗任の三男・安倍季任肥前国松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫が九州水軍松浦党を構成したともされる。なお松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱により、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。その後、高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れる為に安倍姓を名乗ったとされる。
しかし他方で、『筑紫軍旗』によれば、安倍貞任が討ち死にした後、弟・宗任は降伏し、源義家によって助命されて肥前国流罪となり、渡辺久(松浦久)に身柄が預けられた。久は宗任に娘を娶らせて下松浦に住まわせたとする。
前説は平戸松浦氏の祖(平戸藩祖)を安倍とするが、その説では松浦氏の系図や地元の伝承とは全く整合性がなく、後説のように、松浦四十八党に加わって一勢力になったに過ぎないと考えられる[1]




東国御家人との確執[編集]

平安時代松浦党が盤踞した地域は平家知行国であるため、松浦氏は平家の家人となっていたが、源平合戦では壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に与し、その功から鎌倉幕府の鎮西御家人となり地頭となる。しかし、源頼朝は、平家家人の九州の豪族への信頼は薄く、九州の抑えとして少弐氏島津氏大友氏守護として九州に送り、松浦氏は、同じ環境の秋月氏蒲池氏などと同じく、これらの新参の東国御家人の「下り衆」の傘下に置かれる。
元寇の際は、松浦党の惣領だった佐志氏佐志房や、山代氏山代階などが奮戦する。


そうすると辻褄があうんだ。頼朝親子は百済だって。

そんで源氏の迫害から逃れたという点について。この源氏とは百済面に落ちた源頼朝親子の陣営を指す。

あたしは源氏だが、頼朝親子は仇だ。その頼朝の父親はな、源満仲の遺産を百済に貢ぎ、勢力くださいって拝んだたわけ者だ。