まず今のあたしがわかる内容を教える。
ほんで、岩手方面から熊本のあたりに入ってるのは、熊本の地ってそもそも「楚」なの。楚移民のとこ。
そこに入れたのは「楚」だからなんだよ。楚と魏ならば価値観同じだからな。
そこの地域に付いたあだ名が「熊襲」クマソっていうのは楚の姓がそもそも「熊」だからなんだ。
ほんで肥後熊本っていうのは、南朝寄りなの。あたし寄りって事。
それが史実の本体。
ほんで松浦水軍っていうのはもちろん大嶽丸の軍勢なのさ。
それが過去戦ったのが、元寇。つまり相手は元・蒙古。
ほんで平家っていうのは桓武平氏ではないの。平家は平家なの。それと松浦が組んだのも、正当性あり。
あたしサイドだから平家は。
松浦はうちサイド・本来は。
ほんで大嶽丸子孫は山口に多賀神社を作った。大嶽丸の盟友だからな。その多娥丸っつうのはあたしの系統の事。
だから松浦方面に鷹島ってあんだろ。
多娥島でなく鷹島にしたんだろう。
鷹島に鷹飛んでいるか??
松浦氏
安倍宗任の系譜[編集]
『平家物語』の百二十句本(国会本)剣の巻によれば、安倍宗任が前九年の役で敗れたあと、治暦3年(1067年)に太宰府に流されるが、子孫繁栄して松浦姓を名乗ったという説がある。この伝えは、百練抄、前太平記、歴代鎮西要略でも記されている。
この説では、安倍宗任は、宗像氏の配下となり、筑前大島の統領となる。宗任の三男・安倍季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫が九州水軍松浦党を構成したともされる。なお松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱により、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。その後、高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れる為に安倍姓を名乗ったとされる。
しかし他方で、『筑紫軍旗』によれば、安倍貞任が討ち死にした後、弟・宗任は降伏し、源義家によって助命されて肥前国に流罪となり、渡辺久(松浦久)に身柄が預けられた。久は宗任に娘を娶らせて下松浦に住まわせたとする。