三好氏は南朝だからこれも辻褄が合う



和泉松浦氏[編集]

和泉松浦氏は、中世には和泉国のに拠った室町時代武家半国守護であった和泉守護細川氏重臣として和泉国守護代を務めた。岸和田城主。

概要[編集]

明応9年(1500年)にの和泉上半国守護細川元有河内国守護の畠山尚順に攻められ岸和田城で討ち死にすると、元有の子・細川元常阿波細川家の元に逃れ、代わりに松浦盛が城主を務めたと思われる[5]
その後、細川晴元が阿波から上洛すると天文5年(1536年)頃より、元常の子・細川晴貞和泉国を治め、松浦盛の跡を継いだ松浦守守護代を務めた。
しかし、天文18年(1549年)の江口の戦いにより細川晴元とその重臣三好長慶が対立すると松浦守は三好長慶側につき[6]、細川晴貞の記録は途絶える。松浦守は弘治年間 (1555~1558年) 頃に没したようで、永禄3年(1560年)に十河一存岸和田城に入り、その後見のもと松浦万松が跡を継いだ。
その後、松浦虎松浦光の間で内紛となった後、家臣の松浦宗清が松浦光を暗殺し松浦家を掌握したが、慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは西軍に属し改易された。