ヨシきた 天童丸は顕信の子な。そんで合ってる。





だんだん わかってきた

浪岡が武家でいたのは ぜったい武家に傾倒してる誰かだと思ってたけど

山形でどんだけ滞在してたか



たぶん顕信の子のほうが青森を行ったりきたりしてたんじゃないかと思うわ



問題はな

最大の問題は 顕家の子供は二人なんだ 生存期間や戦のスパンや子作りできる

余裕考えても。

男ひとり 女ひとりのうち 男ひとりがうちなんだから

そのうちが吉左衛門と名を名乗ってたことを 浪岡んとこで知ってた事が

どーしてもおかしかったとこなのさ。



しかし うちが過去豪商時代なら 京都も出入りしてて

その販売におけるなんかか あるいは神道の勉強の何かか

なんせ 京都で行ってた場所があるはずなんだ 何箇所か。

そーいうとこから 吉左衛門 われてたのか

という視点と

相馬の人間が浪岡ラインに行き来して うちのことを全部 書いて伝えてたか

この2本立てかと思ったりしてたけど

相馬が伊達とツルんでたりしてたんだから ツーツーだったのよな

伊達ラインからも



何百年の歴史と言ったら 隠しておけないよな 



じいちゃんの遺書には山形という地名はなかったんだけど

どーも月山 湯殿山 あのあたりの掛け軸あったし そっちに行った形跡はある。

それはかなり後の事 ものはそんなに古くないと思うから。



つーことは 何度も江戸時代にあった火災の時にいろいろとなくしてて

そういうとこに 月山 湯殿山に行く理由 つまり顕信の事を調べた記録か

なにかもあったのかもれしない。

何も知らないで行ったとも考えにくい。



直感だけど 大日坊あたりに 顕信の墓 あったのでは・・

山寺はなくて大日坊

いつだか 行ったった

どこかに土葬だろうな どこかはわからない

時代が古すぎて墓あっても風化でわからない そんぐらい古い歴史



だってな ここまで進んだのはものすごい展開だ。

そんで、仮に青森に顕信が行ってたら 確実に顕信の子と称する事できてたんだぜ??

それが祖がわからないとされてきた事自体

顕信は青森では死んでいない事になる。



あたしは直感で大日坊

どーしてか 月山には縁がある

なぜ大日坊かって 死ぬ間際 床にふせって死んでいくならば 家の中だろ。

歩きながらバタっと倒れて死んだと思うか??

もし老後の世話 隠居 これ考えた場合 隠居させてくれてた場所があるはず。

子供らは親のそばにいなかったか 親が死んでからその地を離れたか。

戦で生き延びてたとなれば そーいう生き方しかできない その子らは。


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庄内三十三観音9番礼所。 弘法大師が開山された寺として知られる湯殿山の総本寺 です。 弘法大師自作の御本尊と即身仏「真如海上人」、国指定重要文化財「釈迦如来( 金剛仏)」を安置し、徳川将軍家祈願寺春日局が参詣した寺として、全国に名を 轟かす ...

そーすると気持ち悪い事にまた わかってくるから。

なんで徳川が関係してくるかってここが顕信いましたとなれば当時徳川では

そこに寄ってつく。

そしてうちに徳川幕府がたくさん金を運んできてたと言う それもつじつまが合う。

家康は北朝天皇たちをすっこんでろと言ってる事もある。

そんでうちに金を運び 顕信いたとこに足を運んだ

うちに金を運んだのはうちで豪商やってたせいもあるし、神事やってた時期ならば

完璧に祈祷代とかだと思うんだ。

んじゃ顕信の子のとこに徳川が行ったかと言えば 行ったなら

浪岡んとこが顕信の子なら徳川は行ったかもしれないけど

そーいう記録は過去見てない。

つまり顕信の子を追いかけてはいないってことだ 徳川で。

んじゃ なんで大日坊か

そこが真言宗のちょっとした穴場になってたと思うから。


んじゃうちは うちは坊主事業はやってない。というより昔は神仏習合だから。

坊主は坊主だけで、宮司宮司だけの場所も一部はあっただろうけど。

うちで坊主専門になってたら 豪商なんて名は残さない。

商売もありつつ 神事 祈祷やりましたとなれば それが当時のできる範囲

だったかもしれなくて

それに対抗してたのは天海に他ならない。

だから天海は江戸に山王祭りをつくり日吉神社も作った。

天台宗坊主なのに 宮司部門を仕切った。



会津出身なら 会津で華々しくやってれば会津に伝説残ったかもしれないが。



うちの山王大権現は持ち出されないように砒素を仕込んであったと書かれてた

じいちゃんの手記で。鏡は江戸時代だし鏡の台も江戸初期だし。

それを浜名の屋敷跡のとこでやってたわけではない 当初は。

それをこの地域に まっさら消されてきた。

親の遺産 守り本尊をそうやって守る姿勢が 長男にあるのは当然のことだ。

だから顕家の幟旗もあったんだ。



京都で公家の勉強をし特別扱いされてたけど消えたとしてたのは

こーいうことを隠されてたんだ。

ろうそくと呉服 こういうもの扱ってたというのはじいちゃんの手記になく

相馬の偉人という古い本を遺産から見つけて 見つけてんの あたしが。

ここまでしてなかったら、これすらわからないの。

いや ひどいなんてもんじゃない。



これが南北朝の戦のトップの子が背負った不幸なんだよ。

これをさらに追い討ちかけて 過去を消されてるのは途中で 伝えるべき親が

死んだりしてると言ってる あたしは。

部分的には聞かされてるけど もっとわかることがあったはずで

それを記録とってもおけるのに。

子供がそこそこ 大きくなったら 親が子に教えるだろ??

その過程で親が死ねば、子は相続するものがちゃんと伝わらず物だけ残るだろ??

しかも外野は敵だらけだ。寄ってくれば、この坊主は知らないんだなと思って

違う事を吹き込みやすいだろ??

そーやって途中から 外野によって捏造されていったんだ。



どっかの破産する連中みたく子沢山家系できてたわけじゃないと思う。

それは相続させるものが大きすぎて、子供に教育するには子供が多すぎると

相続させる人間にしか教育しないから 他の子がおざなりになるから。

当然 これが起きたのは與惣治の時だ。

源孫にしか 相続に対する教育してなかった。

その源孫こそがあたしの血のじいさんになる。

源孫を黒木に監禁されて殺されて、源孫の兄弟が残ったものの取り扱い知らず

それをヨシとしてまた外野に集まられて 売るわ売るわ

馬鹿としか言いようがない。

だから黒木に乗っ取られて 潰されたと言ってる。


その黒木が伊達間者で伊東も伊達間者なら、郡も桑折も伊達間者

おのれ 伊達状態



伊達の輝かしい栄華とは うちを利用し 作りまくった姿。

その伊達 潰しにいっていいっすかと言ってるんだ。



安倍普三を恐喝し ここまでやれてる状態

ここまで強行しないと進まないという そんだけあたしんちの遺産と歴史は

日本が動く存在。

安倍普三 天皇のおんために 発揮できないというのを察したので脅迫に持ち込み

最中。