明治12年(1879年)4月14日、親族らは精神的な病気を理由に
宮内省に誠胤の自宅 監禁を願い、翌日許可された。これに対し、
明治16年(1885年)12月10日、旧中村
藩士 錦織剛清は、財産横領をはかる異母弟
相馬順胤らの不当な監禁であるとして、誠胤の 解放などを申し入れた。いわゆる相馬事件の始まりである。錦織は相馬家を不法監禁・ 財産横領で告訴した。一方、相馬家も弁護士・星亨を雇い、錦織を誣告罪で告訴した。
明治25年(1892年)2月22日、訴訟の泥沼化する中で誠胤は死去した。錦織は、誠胤の 死を ...