多賀城は多娥丸の城





なるほど 読んでる途中だけど高丸と多娥丸は同一だ。

大笑い

んじゃ チョイスしていく

〓宮城の伝説〓

富山(松島町)の鬼は大竹丸

箟岳(湧谷町)の鬼は高丸

牧山(石巻市)の鬼は魔鬼女

あのさ・・・坂上が首をはねて神社や寺を建てたのは怨霊が出てこないようにと

封じ込めるためであって、合掌する気持ちなんて さらさらないんだよ。

今の天皇家 見てみろ 口先だけだから。

同族だからな 天皇家桓武と 坂上は。

〓岩手の伝説〓

蝦夷の首領 高丸



つまり 三重の熊野のとこに船で行ってたのはあたしの系統だ。

それを朝鮮系の桓武サイド住人は恐れて坂上を繰り出し、首をはねたっていう

勝手な伝説作ったんだろう。その時、奥州藤原と蝦夷は同じ中国系だぞ??

そんで あたしはさいさん書いてきた。うちらは昔 船で移動してるって。

その入り口が多賀であり松島だって。

そのあたしが思ってた事と符合したな。



ほんでな。この安倍ならば 秋田と鬼首が繋がるんだ??

鬼首 

あのさ 安倍普三は これでも天皇家を助けるのか??って聞いてるんだ。

安倍一族と源頼義はとことん戦争して兵をなくして共倒れした 大昔。

ところが、共倒れするように画策してたのは、当時の朝廷なんだぞ??

これが 今60代になってあと20年生きるかどうかっていう安倍普三の過去帖だ。

あたしだから教えてやれるんだよ。戦争 あたしとしたいか??

桓武のせいで。

ちなみに牧山で安倍氏の肉体をバラしたわけだ。

首・胴体・手

ほら ここで気づけ 桓武平氏は食人族だ。

胆沢城造成前の蝦夷のドン 高丸

それを坂上がガチャガチャにして のちに小沢一郎韓国人みたいな人間が

住み着いたんだな??  小沢一郎韓国人は胆沢だよな??



あれ あとここにあるネブタの大竹丸と さっきの伊勢の多娥丸の話

ごっちゃになってるみたいだよ??

このブログの内容だと 伊勢に船でいったのは安倍氏のほうだという書き方だ。

あとおかしいのが、伊勢のほうでは多娥丸の首をハネたとしてるのに対し

こっちのネブタの話では首をはねたとも 伊勢で死んだとも書かれていない。

そんで 大嶽丸だとさ 今度は。

このブログ書いてる人 韓国人じゃないの??  話がいったり来たりしてるな。

あとな、ウィキで多娥丸と書かれてるのに、こっちのブログだと

大竹丸に大嶽丸

大嶽丸が伊勢に行ったと書いているが、話が無茶苦茶なんだよな。

大竹丸が伊勢に行ったとも書かない

大嶽丸は伊勢に行ったが首は現地ではねられてはいるが、肉体再生をしたと書いてる。大嶽丸は妖怪??

その思考が伊勢や出雲のカルトとそっくりなんだよ。これ信じて過去にどんだけ

戦で人が死んでるか わかるか??

ほんで肉体再生して青森に現れたって??

ほんで蝦夷ケ嶋の鬼のとこに戻った大嶽丸を殺したって??

嘘八百の伊勢脳だな。

ほんで何 鈴鹿権現で祇園際??  アタマ狂った祭りだよ それ。

ほんで今度は大竹丸(大嶽丸)って書き方してるけど、

こいつ捏造だな このあたりは。

いやー こいつのブログ イライラしてきた

今度何??  諏訪と高丸だって??  こういうのを売名って言うんだよ。

神道集だと。これを一般層の人は何度も読んでみてもらいたい。

アタマん中 混乱するから。

全国の神道宮司 戦争から逃げてるだろ。その戦争不参加によりこのキチガイ

神道が拡大した責任とってもらわなきゃならない。

諏訪の大祝は自称 神??  ならば神の裁きを受けよ。とんだ詐称だ。

諏訪大明神は出雲の神をまつっていると書いてあるのでこれはなおさら

神様話で戦国作ってきた責任 諏訪にもある。

あと安曇

魏石鬼八面大王 

名前からして、あたしの系統だな。みんなそう思うよ。

ほんで何??

ああー坂上と戦争してるんだ??  ほんでは尚更 魏石鬼八面大王ってあたしの系統

もしかしたら 毛野と関係あるかもしれん その魏石鬼。

そうすると信濃にはもともと、あたしの系統が住んでいたと認める文体です。

それを桓武平氏坂上が侵略にきた。

ほんでまた坂上はやらかした。また 魏石鬼の遺体をバラバラにしてあちこちに

埋めたと書いてある。

大王神社??  大王神社というのが信濃にあんのな??  んじゃそこも調べなきゃ。

そして八面大王の本拠地は宮城??

ああー宮城だよ 多娥丸は。

なおさら 一般の人は桓武平氏のやってきたことを知ることができる。

そーか 海賊多娥丸といわれてたのか。

ふーん

秋田のナマハゲっつーと男鹿半島だな

あと五島列島久賀島の鬼は一緒??  ほんじゃ あとで調べる。

あと佐渡も??

みしはせは東アジアの最古の海賊??

だから書いてるだろ あたしは夏系だって。

安東水軍 伊予水軍 松浦水軍 あーなるほど


大多鬼丸 阿武隈山系一帯

早稲川の里??


千島大多鬼丸と坂上の戦??

なんでここでも大竹丸と大多鬼丸が一緒になってるのか 不思議だ。。。。

安倍氏の派生か うちの派生か どっちだ その田村の件は・・・

ただ 仙南の件はあたしの系統だ。 はっきりしただろ。


ちなみに この立ち位置は 八幡があたし

ほんで桓武平氏が 坂上

どーだ この日本史!


あと、この大野東人って言うのは桓武平氏の使いだよ まず。つーことは侵略者。

ほんで、はっきりしたいのはこの桓武平氏の大野が多賀城を築いたのではなく、もとから

その場所に多賀という地名が付いていた。

700年ころというのは桓武平氏が東北に侵略に来る時期だから。それよりももっと前に

住み着いてる民族がいたのを、この連中は勝手に盗賊だの悪人だとの位置づけして

侵略してきたにすぎない。

あのな 宮城の県立のほうでよーく調べてみ。文献ないのかもな・・・・

もとから多賀 コイツら来る前から多賀 つまりあたしの系統の拠点だ。

あと その近くには700年よりも古い古墳も多々ある。生活圏だ。

多賀丸 多娥丸はそこにいたんだ。

そこから伊勢も伊予もどこにでも出してたんだ 船。

それが関西にある大和朝廷とは別の東北のヤマト朝廷。

あたし魏系だけど夏系だとも書いてる。

ほんで白江村の戦いで負けた百済と倭(漢族)が関西 その連中が東北にあったヤマト朝廷を

侵略に来たって事だ。

ほんであたしのルートだと古代中国の優秀人がいたって事だ。

そのグループは殷が来た時に嫌で土地を明け渡し 移動してきたものと思っている。

だから中国での治水はハンパになって、その後を継ぐものがなきゃ出来ないできたんだ。

治水。いわゆる土建。

なので、白江村の戦いであたしの系統は関西とは合流していないと思うって

書いてきたのはここでも符合する。だってあたしの周辺 唐の人もたくさんいたでしょ。

それをさ。関西の文化は日本の文化だってされてそれを見せられてきた中国の人は

かっぱらい盗賊が関西に作ったものを日本の過去の文明の象徴だって見せられてきたんだ。

建物やなんかが文明の象徴だと??  考えることがまさに秦。

秦の始皇帝の冊子が そこらに並んで置いてあるようだけど・・・。

秦は破産するまで金をつぎ込んだ それを継承したのが漢だ。

それらが会津と合体して、戦争の時 満州をとりに行って、南京で暴行起こしてたら

そのチームはグルだ。南京に入ったのって台湾もだっけ??

あちこちに散らばった 追い出された人たちが本土に戻って 土地返せと強奪殺人

したようなものじゃないか。

そうすると、それがわかれば この先また民族がシャッフルされた後に起きる事件も

同じパターンだ キンペーのとこではぜひ学習しててほしい。

自分のいた所を取り戻しに武力行使した事件。

そしたらば、あたしの場合 取り返しに行くといっても そんなに土地を移動してない。

それは先祖の墓があるからなんだけど。

取り返すのは 城あったとこと金と 歴史修正と あと何だ??

大学出た親戚よっか あたしのほうがはるかにわかるという この凄さ。

多賀城は 大野が作る前にあったはずだ。同じところか ちょっと違うところか

そこまでしてなきゃ多賀という地名はつかない。

あとついでに教えるとカニバリストは魚を取って食べる事もしていない。

殺しあって 出た遺体に手をつけるのだから 山間部と平野か??

あと移動手段も 船に便乗で載せてもらっただけ??

馬を移動手段で使ってたならば馬も食うだろうな・・・・。

多賀方面の700年以前の文献が 見た感じ少ない。桓武がまーた燃やしまくって壊したか??

盗賊の分際で徹底的に破壊しただけでなく 民族さえもゾンビにした。

この責任よーアキヒト達 まーた東北に来るって??  カニバリストの子孫は早く

朝鮮に引き取ってもらいなさい。国費が無駄。さっさと宮内庁職員もやめさせろ!

宮内庁よりもはるかにあたしのほうが仕事してるわ!






大野 東人(おおの の あずまびと、生年不詳 - 天平14年11月2日742年12月7日))は奈良時代の武人。糺職大夫大野果安の子。は君のち朝臣官位従三位参議

経歴[編集]

和銅7年(714年正七位上の位にあった東人は騎兵170騎を率いて新羅使の入京を迎える。養老3年(719年正六位下から従五位下に昇叙。養老4年720年)に発生した蝦夷の反乱(征夷将軍多治比縣守により鎮圧)後、まもなく蝦夷開拓の本拠として多賀柵を築く。神亀元年(724年従五位上神亀2年(725年従四位下勳四等天平元年(729年陸奥鎮守将軍に任じられていた東人は、鎮兵の行賞を奏上している。天平3年(730年従四位上に叙せられる。その後も蝦夷の開拓を進め、天平5年733年)にはそれまで最上川河口付近(現在の庄内地方)にあった出羽柵を、雄物川河口付近(現在の秋田市付近)に移した。