さて、伊勢と日吉が関わった人の書いた昭和47年7月発行文はいかに。

これ いかに宮司たちは、あたしらの想像をはるかに越えて、調べつくしてたか

わかるでしょ??

いやー おかげさんで、311後 蔵が壊れて 初めて 出てきた数々なんだわ。

蔵にしまってあって、源孫の子供たち それになかなか触れてなかったのさ。

あとは、調べてた長男は街宣右翼行き。

あとは、別の父親違いの長男は、仏像にまったく触れてもいない。

源孫死んだのが、昭和20年代で。

うちが父親関わってたのは、父親が小さい時から不思議な力持ったからさ。

俺は阿弥陀如来だって急に言い出して、どうやら色んな事をしゃべり出すからって

神社へ一時修行に行き、それから数年 阿弥陀は居間にあって

そこに集まった人たちの祈願ごとを処理してたっつーのは、古い人ならば知ってた

はずだ。それを当人がやってたのが小さい時っていうんだから小学校ぐらいだよ。

数年やってて、あまりにもいろんな事が見えすぎて辛いっていうんで、

自分で阿弥陀へ頼んだって言ってたから。

もう見たくないって。そしたらその能力は消えたって言うものの、その当時

大熊とうざいから、祈願やお願いごとで尋ねてきたひとがいるから

相当 有名だったらしいし。

それが昭和30年周辺だろうさ。

ほんでうちには家宝がありますって新聞に出たのが昭和40年代。

大正時代に毎年例祭をやるって発表したのに、それをことごとく

ぶっ潰した連中が、過去 うちから金借りて ほとんど返済してないで

集団で開き直ったんだろ。

昭和22年だっけ?? 野馬追いやりだしたのは。。。

源孫死んだ後から??

ここの連中があたしから抹殺したいって言われてる状態はな。。。

なんでかっつーと、うちが南朝天皇で知られてて隠されたうちだったからさ。


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元弘二年(1332) 北畠顕家陸奥守となり、皇子義永親王を奉じて出発し、
多賀城を修築して出羽を併せ鎮めたので、その後二ヶ月後にして奥州は悉く
平定した。翌年、新田氏義は霊山(今の伊達郡霊山町)に賊を攻め、
これを亡した。そこで顕家は親王を奉じて霊山にこもり、結城道忠が
これを補佐して、宇多郡、海道諸国(現在の浜三郡)の鎮撫にあたった。
行方郡横手(上真野)の西北慈照寺山にも城を築き、北西遥かに霊山の狼煙
を仰ぎ、眺望絶佳なるをもって、義永親王を度々この館に出御願って御心を
慰めたという。即ち、この地は行方、宇多両郡の海浜十数ケ村を眼下に
見下ろし、東に八沢浦、北に松川浦、西に唐神の池があって海上遠く
金華山を望む要害の地であった。

また、行方郡村上の館(福浦)は、顕家が親王陸奥に奉じた時、御逗留の
所で、数年間この里を行在所とした。ここは海に面し、乗船渡航の備えもあり
、後、親王が還御して帝祚を践み、後村上となるにおよび、この地を名づけて
村上といひ、古支王権現として、天皇をここにまつった。

当時における諸候配置を見るに、陸奥の北部には安東、南部氏、中奥に
葛西氏、南方には相馬、田村、伊達、結城、芦名氏あり、出羽には小野寺
、武藤氏などの勢力がふるっていた。
さらに宇多、行方郡に據るものをあげれば次のとおりである。

○宇多郡小野の館 小野日向
北畠の旧臣で小野および近傍の邑里を領す

○宇多郡黒木の館 黒木大膳亮正光
北畠の属下

○宇多郡成田(熊野堂)の館 中村六郎広重
結城道忠の属将

○宇多郡立谷の館 立谷左近亮
北畠の属下、中野氏立谷邑に住して立谷を号す

○宇多郡磯部(茶屋崎)の館 磯部掃部頭
海上往来の船舶いこいの場所

○行方郡桜平の館 真野氏康
真野長者の子孫、江垂村を領す

○行方郡慈照寺の館 (霊山支城)

○行方郡村上の館 (義永親王行在所)

○標葉郡請戸の館 
標葉四郎隆之 北畠に属し標葉を領す



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