かつての主君に何やってんだか・・・


    ざっくり言うと人に思いいれなどない。土地に思い入れがあるだけ。
    
   つまり不敬罪にあたる人たちはあたしから延々と何千年も制裁をくらう。

      ちなみに、かつての建武どころのレベルではないから。

    古代ゾロアスターと夏代魏系が、大昔からあたしの陣営だった事

          あたしの血でわかったレベルだし。

    あと、むっちゃ資料あるからさ。博物館建てるレベルだよな。

    子孫末代まで根絶やしにしてやるってあたし公言してた理由

     わかった?? すさまじいから。。。。

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元弘二年(1332) 北畠顕家陸奥守となり、皇子義永親王を奉じて出発し、
多賀城を修築して出羽を併せ鎮めたので、その後二ヶ月後にして奥州は悉く
平定した。翌年、新田氏義は霊山(今の伊達郡霊山町)に賊を攻め、
これを亡した。そこで顕家は親王を奉じて霊山にこもり、結城道忠が
これを補佐して、宇多郡、海道諸国(現在の浜三郡)の鎮撫にあたった。
行方郡横手(上真野)の西北慈照寺山にも城を築き、北西遥かに霊山の狼煙
を仰ぎ、眺望絶佳なるをもって、義永親王を度々この館に出御願って御心を
慰めたという。即ち、この地は行方、宇多両郡の海浜十数ケ村を眼下に
見下ろし、東に八沢浦、北に松川浦、西に唐神の池があって海上遠く
金華山を望む要害の地であった。

また、行方郡村上の館(福浦)は、顕家が親王陸奥に奉じた時、御逗留の
所で、数年間この里を行在所とした。ここは海に面し、乗船渡航の備えもあり
、後、親王が還御して帝祚を践み、後村上となるにおよび、この地を名づけて
村上といひ、古支王権現として、天皇をここにまつった。

当時における諸候配置を見るに、陸奥の北部には安東、南部氏、中奥に
葛西氏、南方には相馬、田村、伊達、結城、芦名氏あり、出羽には小野寺
、武藤氏などの勢力がふるっていた。
さらに宇多、行方郡に據るものをあげれば次のとおりである。

○宇多郡小野の館 小野日向
北畠の旧臣で小野および近傍の邑里を領す

○宇多郡黒木の館 黒木大膳亮正光
北畠の属下

○宇多郡成田(熊野堂)の館 中村六郎広重
結城道忠の属将

○宇多郡立谷の館 立谷左近亮
北畠の属下、中野氏立谷邑に住して立谷を号す

○宇多郡磯部(茶屋崎)の館 磯部掃部頭
海上往来の船舶いこいの場所

○行方郡桜平の館 真野氏康
真野長者の子孫、江垂村を領す

○行方郡慈照寺の館 (霊山支城)

○行方郡村上の館 (義永親王行在所)

○標葉郡請戸の館 
標葉四郎隆之 北畠に属し標葉を領す



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小高落城

後醍醐天皇は、北條高時を亡ぼし建武中興の大業を漸く成し遂げたので
政権は再び皇室にもどった。しかし、その恩恵においては公平をかいた
ので、不平をいだくものが非常に多かった。足利尊氏は諸国の武士が
新しい政府に失望しふたたび武家政治の世になることを望んでいるのを
知り、建武2年(1335)北條時行の乱を機として、その名門たる地位を
利用して自ら将軍と称し、武家政治の再興をはかった。まづ尊氏は意を
最も奥州にそそぎ、一族斯波家長を自ら陸奥守に任じ、
高清水(今の宮城県栗原郡)の地におらしめたが、間もなく家長に会津
芦名氏が応じた。朝廷は義良親王陸奥の太守として、陸奥、出羽
常陸、下野四ケ国を管領させ、顕家を鎮守府将軍として随行させた。
しかし、兵六万五千をもって尊氏をせめたてていた新田義貞が敗れる
におよび、朝廷は急遽顕家を京へよびもどした。

尊氏は勢いをかって京都に攻め入り、顕家は新田、楠などと協力して
漸くこれをやぶることができた。やむなく尊氏は九州に難を逃れて敗走
した。さて翌三年三月、足利兼頼の催促にしたがい、相馬氏は熊野堂の
砦を攻めたが、利あらず、兵を収めて帰陣した。間もなく、四月に重胤
は、その子親胤と共に、斯波家長に属して関東へ出陣し、嫡子松鶴
(後の治部少輔胤頼)を親胤の弟、光胤が補佐して、小高城の留守を
守った。この月、重胤は相州鎌倉の合戦で法華堂の下に討死したが、
親胤はなお父の意志をつぎ斯波氏に従って奮戦をつづけた。

五月はじめ、熊野堂附近で小ぜりあいがあった後、顕家属下の諸将は
大軍を率いて小高城を囲んだ。相馬光胤は防戦したが遂に保つことが
できず、五月末には落城のうき目をみることになり、一族九十七人
、侍九百三十九人、その他多数討死した。しかし、松鶴丸(当時十三才)
は母と共に小高の西、釘野山の麓の農夫の宅に隠れ、山野に辛苦を
なめたものの、よくその身を全うすことができた。

翌年正月足利兼頼は探題となり、奥州宮方の誅伐にやってきた。
その時、松鶴丸は一族従士を集めて兼頼にしたがい、部下を督励
して中村六郎広重を宇多郡熊野堂に攻めて、遂にこれを陥れた。

兼頼は直ちに尊氏に対して戦況を注進したので、この戦功により
相馬領は旧に復し、松鶴丸は八ヶ月ぶりに居城へ戻ることがてきた。

また、この時にあたり父親胤も帰国して小高城に入ったので役一年ぶり
に父子対面ができ、互に無事を祝って感涙にむせんだのである。

延元三年(1338)顕家は和泉国(大阪府)安倍野に年二十一才で戦死
し、弟顕信もまた、程なく敗死したので麾下の将も次第に北朝方に
降った。この間、相馬親胤は栗原郡(宮城県)に敵をうち、南朝方の
余党を伊達、藤田、霊山、或いは田村郡の宇津峯等に攻め、輝かしい
軍功により先づ奥州東海道七郡の大将となった。次いで奥州東海道
守護職に、さらに検断職に補せられた。

一方、領地も黒川郡新田郷(一名南迫、宮城県)出羽国下大山庄漆山、
門田、飯沢(山形県)を賜り、又二代将軍足利義詮の時には相馬胤頼
(前の松鶴丸)に宇多郡(相馬市及び周辺)・名取郡増田郷(宮城県)を
賜った。かくして相馬氏は本国下総をはじめ、所々に領地を有する
に至ったが、その頃は都も地方も戦乱やまず、相馬讃岐守胤弘の
代までは、小高・中の郷二ケ郷のみ全領したにすぎず、他は土豪
これを領奪していた。